[note60]学ぶ根源にあるものと、どのように向き合うかPART1
人の根源的な欲求
『子どもは40000回質問する』(あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力)という書籍がある(光文社/イアン・レズリー著)。自分の2人の子どもはまだ2歳と4か月であり、弾丸のように質問をする月齢ではないが、長男や同じ保育園の子どもたちを見ていると、「よくそんなことに気付くなあ」「いつ、覚えたのかなあ」と感じることが多々ある。また、YouTubeで新幹線の映像を見て、「こまち来た」、「はやぶさだ!」と言っているのを見ると、彼の頭の中がどのように動いているのかを覗いてみたくなる。
別の日にはこんなこともあった。勤務校において学校見学を案内している時のこと。見学時間は限られているが、「この子はいつまでもここにいたいんだろうな…」と感じたのが理科室と図書室。図書室では歴史の本を手に取って、保護者の方に「これはね、地形から考えると絶対に山側からは攻撃してこないんだけど、この時はそれを実現させて戦いに勝ったんだ」と嬉しそうに話している。当たり前のことだけれど、「子どもたちは常に知りたくて、話したいんだな」と改めて感じた。彼らの頭の中には、「おとな」になってしまった私たちが見過ごしている小さな疑問や当たり前だと思ってスキップしてしまっている日々の出来事が沢山詰まっている。そして、こうした疑問や好奇心は誰もが持っているもので、それがいつの間にか正解を求めることに汲々とするようになってしまった。もちろん、いつまでも子どもでいることができるわけではないけれど、根本的な「知ることの楽しさ」「伝えたいという欲求」「好奇心」に年齢は関係ないのだと改めて思う。
探究(探求)への向き合い
さて、学習指導要領の改訂に伴い、「探求(探究)」学習が注目されるようになった。2つの漢字には差異があるが、ここでは同じように様々な問題に対して、問いを立て、掘り下げて、自分なりの考え、解決策、最善解を探る営みとしてまとめておく。この活動に対して常に存在する疑念が「探究活動で入試結果が出るのか?」「探究活動に時間を割いている暇はない」という問題だ。色々な事情の下に出てくる意見でもあるから、これらを一概に否定するものではないが、そもそも、「探究(探求)」と「従来型」の大学入試学力を並列に考えることに無理があると感じる。つまり、「探究(探求)」活動をしたことで偏差値が〇〇上がったといった性質のものではないということだ。そこを混同すると入試結果の責任を探究(探求)学習に求めることになる。根本的には教科学習は「何だろう」「楽しい」「もっと知りたい」という探究的な要素が含まれるべきものであるし、多くの先生方がそうした意識で授業展開をされているのだと思う。ことさらに「探究(探求)!」という言葉がクローズアップされることで、それまでの学びや授業が否定されるような感覚に陥ってしまうケースもあるのではないだろうか?
教科を教える/教科で教える
教師が正解らしきものを伝達する授業スタイルは変わらず存在するし、それが明確に答えを出すものであるならば、その価値はあるだろう。実際に大学入試の場面に直面すれば問題を解答できればければ合格ラインを突破することはできない訳で、「教科を」教えること自体を否定するものではない。
しかし、大学入試の先(と言っても共通テストを始め、入試自体も探究的な要素が多分に入ってきているが)、すなわち彼らの将来を考えた時に、今、自分が授業で伝えていることは常に変わりうる可能性を秘めている。勿論、歴史の事実や数式、理科の法則、政治や経済のシステムなど原理的に変化しえないものもあるが、それをどのように活用するかを問われる場面が間違いなく増えてくる。その時に既存の知識をベースにして、そこから、どこまで掘り下げていくことができるかが問われる時代が既に来ている。その問いに対して、我々教師は解答を示すことができない。不明瞭で不確実な問題に対して向き合うためには、そこに自分なりの「問い」を立てて、それを掘り下げるプロセスを経ていく必要がある。そうした状況下において、教師の役割は確実に変化する。「教科を」教えること自体は間違っているとは思わないが、地盤となる教科の基礎的な知識を踏まえて、実社会の様々な問題と結びつけて教科を通した学びを構築することが不可欠になる。そうでなければ、我々が伝えていることは検索サイトやChapGPTをはじめとしたAIに代替されるものとなるだろう。その意味で「教科で」教える観点を意識しなければならない。
人間はひと茎の葦であるが、それは考える葦である(パスカル)
この言葉に重みを感じる。様々な事象を調べて、把握することは、どんどん容易になっていくだろう。そこから先、「どのような問いを立てるか」こそが人間の営みになる。その際、一人で考えることもあるだろうが、多様な人々とのコラボレーションを通じて、問いを立て、問題の本質を探り、最善解を導くために何が必要であるか考えていく。そこには教師-生徒という縦関係ではなく、不明瞭な問いに対して共に考え、苦しみ、楽しむ横の関係が必要になるのだと思う。
私たちはどのように探究(探求)するか?
今回は今感じている、問題を率直に書き連ねてみた。改めて新学期を迎えるにあたり、教科教育と探究(探求)学習をどうつなげていくかを考えてみたいと思う。ただし、現時点で私が考えなければならないと感じることが1つだけはっきりしている。
「いかに問いを立てるか?(できれば生徒自身が)」
ここから全てがスタートするのではないかと感じている。
当たり前だが、学びの営みは「問い」からスタートするからだ。
夏の研究会で「探究(探求)」について学ぶ機会があったことは幸いだった。まずは、その学びを自分なりに探究(探求)することから始めよう!!
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