ひとつ上の文章にするために「ツッコミ」を入れよう
ぼくは一人で文章を書くときは「著者」と「編集者」を一人二役でやるといいよと言っています。
考えてみれば「推敲しなさい」と言っているだけなのですが、、、まずは著者の気分でとにかく書きまくる。その後、「編集者」になって「著者」が書いた文章を冷静に直していきましょう、ということです。
「まあ、それはわかるんだけど、編集者として直すとき、どうやって直せばいいの??」という疑問が残ります。
ぼくがいつもイメージしているのが「ツッコミ」です。
自分の文章を読みながら「なんでだよ」「わかんねーよ」などと心のなかで言いながら推敲していくと、ひとつ上の文章にすることができます。
というわけで今日は「ツッコミ推敲」のやり方について書いてみます。
「論理的かどうかツッコミ」をする
ツッコミにはいくつかパターンがあります。
ひとつめは「論理的かどうかツッコミ」です。
このツッコミは「ここ、日本語おかしくない?」「こことここが矛盾してるんじゃない?」「最初と最後の文章がつながらないんじゃない?」など、文法や論理的なまちがいを指摘する類のツッコミです。
例があるとわかりやすいと思うので、こんな文章を用意しました。適当に音声入力しただけの文の塊です。(読まなくてもいいです。ひどいので。)
<Before>
個人という概念が人を不幸にしているところがあるように思う。個人という概念があるからこそ、別の子と比べることになって劣等感を感じるのではないか。医食住が満ち足りていてある程度健康であれば人生はそれでいいはずなのに、来というものがあることで別の子よりも優れていないといけないという暗黙のプレッシャーが生まれる。こではなく、公という概念が大きかった時代はもっとシェアの気持ちが大きかったように思う。今はインターネットを通じてシェアという概念が広まってきている新しい価値観が生まれるかもしれない。
漢字も間違えているし「ちょっと何言ってるかわからない」ですよね。これに「論理的かどうかツッコミ」を食らわせて、わかりやすく論理的に整えていきます。
強調や区別をするための「」も入れると、より理解しやすくなったりします。(ぼくは癖で多くなりがちです。)
<After>
「個人」という概念が人を不幸にしているように思う。「個人」という概念があるからこそ、別の個と比べてしまう。
本来、人というのは衣食住が満ち足りていて、ある程度健康であれば、人生はそれでいいはずだ。なのに「個」というものがあることで「別の個よりも優れていないといけない」という暗黙のプレッシャーが生まれる。
「個」ではなく「公」という概念が大きかった時代は「シェア」の気持ちも大きかったように思う。今はインターネットを通じて「シェア」という概念が広まってきている。新しい時代の「公の」概念が広がりつつあるのかもしれない。
いちおう理解はできるのではないかと思います。「個」というものがあるからこそ、人と比べてしまって不幸になったりしますよね? という内容です。
「過不足ツッコミ」をする
次は「過不足ツッコミ」をしましょう。
これは「過不足がないかどうか」のツッコミです。
さっきのツッコミと似てますが、このツッコミは「ここは何度も言っていてくどいんじゃないか?」とか「ここは説明が足りてなくて納得度が低いんじゃないか?」というツッコミです。文章に「過不足」がないかどうかをチェックするのがこの段階です。
読みやすい文章というのは「読むスピードと理解するスピードが一致するもの」だと思っています。目を動かす速度とそれを理解する速度が一致すればスルスルと読むことができます。
目を動かしているのに頭に入ってこない文章は説明が足りていません。逆に、すでに理解できているのに長いあいだ読まされる場合は余計な文章が残っています。
この「論理的かどうかツッコミ」と「過不足ツッコミ」がちゃんと機能すれば、気持ちよく最初から最後まで読んでもらえます。
ちょっとやってみます。
<After>
「個人」という概念が人を不幸にしている。
自分も「個人」ならば、他の誰かも「個人」。「個人」という概念があるからこそ、別の「個人」と比べてしまうことになる。
本来、衣食住と健康さえあれば人生は満ち足りるはずだ。しかしながら「個人」という概念があることで「他の個人に勝たなければいけないのではないか?」という暗黙のプレッシャーになってしまう。
昔は「個人」よりも「公」という概念が大きかった。近所の人たちみんなで他人の子どもを育てたり、長屋にみんなで住んだりしていた。「個人」よりも「みんな」。いわば「シェア」の気持ちが大きかったように思う。
ただ今は、再びインターネットを通じて「シェア」という概念が広まってきている。新しいカタチでの「公」が生まれているのかもしれない。
ちょっと混乱しそうな部分、理解しづらそうな部分にはいくつか文を足して、理解のサポートをしたつもりですがどうでしょうか。
「つまんねーぞツッコミ」をする
さらに厳しい目で見るのであれば「つまんねーぞツッコミ」をするといいでしょう。これはそのまんまです。自分の書いた文章を「つまんねーぞ」と言いながらツッコんでいくやり方です。
ただこれは度が過ぎると、そもそも公開するのがイヤになってしまうので、初心者はやめておきましょう。
「つまんねーぞツッコミ」をするときは、いつもより飽きっぽい自分になりましょう。数行読み進めては「つまんねーな」と言います。
このツッコミを受けて、数行置きに「気の利いたフレーズ」や「印象に残るコピー」を入れていきます。さらに太字を入れたり、見出しを入れたり、会話を入れるなどして、文章に「動き」を入れていきます。そうやってメリハリをつけていくと「つまんねーぞ」と言われにくくなります。
さらにギアを一段階引き上げると「そもそも興味ないんですけどツッコミ」になります。
このツッコミをするときは、どんな文章を読んでも「そもそも興味がない人」になります。難易度はグッと上がります。すると「そもそも興味がない人にどう振り向いてもらうのか?」を考える必要が出てきます。
ただ、そもそも興味がない人であっても「人生をよくしたい」とは思っているはずです。「幸せになりたい」とは思っているでしょう。よって、その要望に応えてあげるように書き直してあげるといいのです。
いかに自分でツッコミをして、飽きられないように、寝られないようにするか。そして「そもそも興味がない人」に振り向いてもらえるかが勝負どころです。やってみます。
<After>
【タイトル】
あなたが幸せになるための、たったひとつの考え方
あなたは不幸だ。なぜなら「個人」だからだ。
「ん? 個人だから不幸?? どういうこと?」と思われたかもしれない。
「個人」という概念は、人を不幸にする。私はそう考える。
自分が「個人」であるならば、他の誰かも「個人」ということになる。「個人」という概念があるから、別の「個人」と比べることになる。
比べることは不幸の始まりだ。
比べてしまうから「あの人のほうがお金持ちだ」とか「誰々さんのほうが幸せそうだ」という感情が生まれてしまうのだ。
本来、衣食住と健康さえあれば人生は満ち足りるはずである。
しかし「個人」という概念があることで「他の個人に勝たなければいけないのではないか?」という暗黙のプレッシャーが生まれてしまうのだ。
昔は「個人」よりも「公」という概念が大きかった。
近所の人たちみんなで他人の子どもを育てたり、長屋にみんなで助け合いながら住んだりしていた。「個人」よりも「みんな」。いわば「シェア」の気持ちが大きかったように思う。
ただ、今は再びインターネットを通じて「シェア」という概念が広まってきている。新しいカタチでの「公」が生まれているのかもしれない。
以上、これらの「ツッコミ」を意識しながら、推敲をがんばってみてください!!
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