自#133|お盆(自由note)
8月8日の夜、京都の如意ヶ嶽で、LEDっぽいニセ大文字の青白い明かりが輝いたと云うニュースを、新聞で読みました。たまたま目撃したタクシーの運転手が、川端警察署に通報して、警察の係員が麓(ふもと)の銀閣寺に駆けつけて、下山路を見張っていたんですが、どうやら別のルートから、逃亡したらしくて、犯人は見つからず終い。照明器具は、犯人が撤収し、器物破損もなく、山は誰でも入れるように開放されていて、不法侵入にも問えないし、犯罪としての立件は、難しいそうです。単なるノリの遊びとしてやったもので、犯罪ではないと、犯人たちは確信して、今回の送り火騒動を引き起こしたものと、推測できます。大文字保存会の理事長は「なんてことをしてくれたんだと云う思いです。先祖の霊を送る伝統行事の本義を考えて欲しい」と、御立腹の様子ですが、伝統行事の本義など、ほとんど誰も考えてませんし、観光のための一大イベントとして、続いて来たわけですから、その前哨戦(?)としてのLED送り火があったとしても、それはそれで、jokeとして、軽く流してあげてもいいような気がします。全国版の新聞に掲載され、おそらくワイドショーも、小ネタとして、取り上げたでしょうし、無料で大々的にコマーシャルできて、luckyだったんじゃないかと思います。
本物の送り火は、例年通り8月16日に、実施されました。今年は、火床を減らしたそうです。火床も密を避けたと云うことだと思います。
送り火は、盂蘭盆(お盆)の行事の一環です。お盆は、本来、祖霊を死後の苦しみの世界から、救済するための仏事です。種々の供物を、祖先の霊、新仏、無縁仏に備えて、冥福を祈ります。何故か、お盆の時に、祖先の霊は帰って来ます。門前で麻幹(おがら。皮をはいだアサの茎)を焚いて迎えます。帰る時も、送り火を焚いて送ります。
私の母が死んだ翌年の7月の上旬、荒川区に住む従姉が、灯籠提灯を送って来ました。おがらを焚く代わりに、灯籠提灯で代替する場合もあります。ウチの田舎では、おがらはほとんど焚きません。小5~中3までの男の子たちのコミュニティがあって、そのコミュニティが、地区のすべての家の灯籠提灯を準備していました。灯籠提灯は、本来、流す物(いわゆる精霊流し)なのかもしれませんが、敗れたり古くなったりしたものだけを処分して(流した記憶はありません)基本、使い回していました。提灯代と云う負担金を、各戸から集めていました。200円くらいだったと思います。その提灯代を使って、灯籠提灯のメンテナンスをします。余ったお金で花火を買います。この花火は、狭島と云う神社の境内で打ち上げます。
狭島は海の神社です。もともと、裏戸湾と云う湾のまん中にあって、私の村の守護神でしたが、大型船舶の航行の邪魔になると云うことで、私が小2の時、漁港のすぐ傍にコンクリートの人工の島を造って、そこに狭島の神社を勧請し、本物の神社のあった島は、ハッパ(ダイナマイト)で、ふっとばしました。それを、岸壁で私は、見ていましたが、本当にこんなことをしていいのかと、正直、恐怖心を覚えました。経緯は判りませんが、コンクリートの島で、花火を打ち上げることになりました。神仏習合に深い理由とかないです。その場のノリと、都合で、安直に決まってしまうんです。
花火が送り火でも、別段、問題はないと思います。大文字保存会の方々は、まず、一週間の物忌みをし(と云っても酒を飲まず精進料理を食べるだけだと思いますが)当日は、山上で護摩を焚き(この行事のルーツは、平安時代に如意ヶ嶽の麓にあった浄土寺が火災遭ったことです。浄土寺は、浄土宗。護摩を焚くのは、真言宗です。このヘン、どうよとまあ、a little疑問は感じます)般若経を誦してから、長老の合図で、一斉に点火するそうです。
「別にLEDでもええやん。山火事の心配もないし」と、犯人は突っ込みたいかもれません。
お盆の時には、瓜や茄子におがらの脚をつけ、馬や牛に見立てますが、精霊は、それに乗って移動するんです。帰る時に、danceを披露して、見送ることもあります。これがつまり盆踊りです。精霊が綱に乗って帰るとこもあって、綱引きを行う地方もあります。
16日の朝、お盆の供物を川や海に流します。これが、精霊流しです。私の世代ですと、さだまさしさんの曲が、即座に脳裏に浮かびます。
「せんこう花火が見えますか」と云うフレーズがありますから、せんこう花火がつまり送り火です。供物として飾ってあったのは、亡くなった彼が愛していたレコード。これを流します。彼のお母さんも御一緒されていて、お母さんが着ていた着物は浅葱色。ぎりぎり許せる色かなって気がします。源氏物語を愛読している私のchoiceだと、ここはやっぱり二藍(ふたあい)かなって気がします。が、二藍では、歌詞のフレーズに上手くはまらないとは思います。
精霊流しの時、ちっちゃな人形(ひとかた)の紙(100枚くらいはありました)を流すとこがあります。私の親友のHは、高校の同級生のKちゃんと結婚しました。Kちゃんの家に養子に行ったんですが、その家のKおばあちゃんと、一緒に人形の紙を流したことがあります。あれは、まあ煩悩とか、けがれとかを、その人形の紙を依代(よりしろ)にして、流すと云うことだと思います。このKおばあちゃんは、私に親切にしてくれました。義理の孫のHより、私の方が、気に入られていました。Kおばあちゃんは、歳を取ってから通信教育で、水彩画を学び始めました。モーゼスおばあちゃんのように、どんどん上手くなって行くんです。今でしたら、ネットにupできますが、その頃だと、発表の手段がありません。Kおばあちゃんの絵をちゃんと見たのは、家族と私くらいです。私には祖母は、生まれた時からいませんでした。私にとっておばあちゃん的な方は、Kおばあちゃんだけです。
32、3歳の頃だった思いますが、Kおばあちゃんに
「ニシモリくんも、そろそろお嫁さんを貰わんといけん」と、人形の紙を流している時に言われました。
「いや、結婚するつもりはないです。一人で生きている方が気楽です」と言うと
「いや、それはいけん。結婚は、せんといけんよ」と、きっぱりと言われました。どう説明していいか解りませんが、Kおばあちゃんのこの言葉は、ものすごく深いところに刺さって、腑に落ちました。