自#147|行き詰まっている世界に、simpleな新しい風を持ち込む(自由note)

 現代美術家の松山智一さんのインタビュー記事を読みました。松山さんは、新宿駅の東口広場に巨大なステンレスの彫刻をお造りになりました。新宿は、およそアートらしくない街です。アートなモニュメントを据えると云う発想すらなかったと思います。が、実際に造って据えてみると、東口の景色が一変しました。鏡面仕上げのステンレス彫刻が、新宿の街並みや行き交う人の表情を映し出す存在感は圧倒的です。形態も斬新で、インスタ映えする彫刻です。スマートフォンのカメラを向けない人の方が、少ないくらいです。

 松山さん及び松山さんのファミリーに、超ド級の影響を与えているのは、松山さんのお母さんの幸子さんです。東京都品川区出身の幸子さんは、日大芸術学部に進学します。大学は2年で中退して、その後は、トヨタ自動車の米国法人に勤務していたお兄さんを頼ってカリフォルニアに渡ります。ハンガリー系移民だったお兄さんの奥さんに教会に連れて行かれて、熱心なクリスチャンになって帰国します。21、2歳くらいで洗礼を受けたんだろうと想像できます。

 帰国して、松山さんの父親の篤夫さんと出会って、恋に落ちます。結婚をするにあたって、幸子さんが出した絶対条件は、篤夫さんが洗礼を受けて、クリスチャンになることです。篤夫さんは、幸子の願い通り日本基督教団の教会で洗礼を受けます。ちなみに、日本基督教団は、戦時中に当局によって大同団結を余儀なくされた組織で、戦後も(脱退した宗派もありますが)基本、団結したまま残りました。日本ではNo1の規模を持つキリスト教の組織です。「鶏口となるも牛後となるなかれ」の故事とは真逆で、細かい教義の違いには目をつぶって、大きな組織として団結、活動することのメリットを、多くの宗派が理解したわけです。

 篤夫さんは、飛騨高山のタクシー会社の跡取り息子だったので、ファミリーは、高山に引っ越します。松山さんは、高山で生まれ小2まで、高山で過ごします(3つ上のお兄さんもいます)。松山さんが小3に上がる前に、一家でロサンゼルス(LA)に移住します。移住した目的は、篤夫さんが、キリスト教を学ぶことです。篤夫さんは、チャック・スミス牧師が西海岸の自由な風土の中で創設したカルバリー教会のバイブルスクールに通って、聖書学の修士号を取得します。その後、またファミリーは高山に帰ります。

 松山さんは、小3から3年と3ヶ月間、LAで子供時代を過ごしました。3つ歳上のお兄さんは、LAの生活に馴染めなかったそうですが、松山さんは、即座に順応します。小3と小6の年齢の差も大きいと思います。松山さんは、アパートの同年代の子供たちとも、あっと云う間に仲良くなって、スケボーにのめり込んだそうです。当時は、スケボーパークなどはなく、破れたフェンスの先の路上とか、大型の下水溝に入り込んで、滑っていました。LAは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系・・・等々、まさに人種の坩堝(るつぼ)で、カラーギャングが屯(たむろ)する街を、スケボーで、駈け抜けて行きます。

 帰国後、ごく自然な成り行きとして、スノーボードを始め升。大学は、上智大学経済学部に進学しますが、スノボーに打ち込み、大学3年の時、1年間休学して、プロを目指します。が、地元飛騨高山のゲレンデで、着地に失敗。左足首複雑骨折の大怪我をして、スノボーでプロになる夢を諦めます。子供の頃から、絵が好きだったので、大学と並行して桑沢デザイン研究所の夜間コースに通います。その後、渡米し、ニューヨークの建築デザイン系の学校「プラットインスティテュート」に進学して、卒業します。デザインの技術は身につけましたが、「商業美術」では、自分のやりたいことは表現できないと判断し、純粋なアートの世界を目指します。

 大学4年から絵の勉強を始めてアートを目指す、まあ日本では絶対に考えられない無謀な進路ですが、ニューヨークは、それが可能だと思わせてくれるfantasticな街なんです。が、頂点を目指しても、99.99パーセント以上の人が、敗れ去って消えて行きます。ニューヨークであれ、東京であれ、アートの世界は過酷です。それを目指さざるを得ない人だけが、踏み込んで行く、ある意味、魔道です。松山さんは、生活費を一日2ドルに切り詰めて、安い米で糊口を凌ぎます。散髪代節約のために、バリカンで頭を丸刈りにします。家賃の安い物件を求めて、治安の悪いブルックリン地区を転々とします。まさに爪に火をともすような生活の中で、絵を描き続けます。販売を委託したキューレータに絵を持ち逃げされたり、泥棒に入られたり、4人組の強盗にいきなり銃を突きつけられたり、リスクだらけの生活です。ある時、警官が来て「今すぐ、引っ越せ。半径1マイル以内で、このひと月に殺人事件が10件も起こっている」と、忠告されたりもします。

 とんでもなくリスキーな街で、ぎりぎりの生活をしながら、サバイバルをする。ただ、すぐれた作品を描けば、その作品を認めてくれる世界で一番、平等なチャンスに恵まれた街です。どこの大学を出て、どの先生に師事したかと云った風なことは、まったく問題にされません。

 松山さんは、美術館に出かけ、伊藤若冲や他の浮世絵師の作品を見て、納得します。自分は、ヘリングやバスキアの影響を受けたと考えていましたが、自己のルーツは、やはり日本美術のそれだと、腑に落ちました。その後は、美術史を体系的に学び直します。日本の美意識と、西洋的な美術史観とを、どう有機的に繋げて行くのかと云ったことを、考え始めます。現代美術に詳しい、東京芸大の秋元雄史先生は「彼の美術は、カリフォルニアロールみたいだ」と言っています。江戸前の渋いコハダを握っても、アメリカ人のティストには合いません。まずは、解り易いカリフォルニアロールからってことだと思います。秋本先生は「松山さんは、特に古典的な日本文化、仏教的なメンタリティーや大和絵が持つ装飾性、浮世絵にあるような日常感を、わかりやすく加工して持ち込んでいます。天才的なインスピレーションで、全く新しいものをつくるとか、誰もやってないオリジナルの世界を、突然、閃きの中から生み出すと云う近代美術の創造の神話を、彼は到底、信用してないんじゃないですかね」とも仰っています。これが、褒め言葉なのか、or notなのかは良く判りませんが、ある意味、行き詰まっている現代美術に、松山さんは、simpleな新しい風を持ち込んだとは、間違いなく言えると思います。

 秋本さんが京都出身の奥さんと、二人でジョギングをしているスナップが掲載されていました。ジョギングは、頭の中を整理するためのルーティーンだそうです。これは、私も毎日、30分走っていて、まったく同じ事を思っています。

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