【受験ノート】「解る」と「できる」は決定的に違う

 学年通信に掲載されている美術のS先生のアート作品の第4弾を見ました。肩から二の腕にかけての達しさは、男の人のように見えますが、腹部の膨らみは、女性っぽい感じです。実際の所、どうなんだろうと云うプチ疑問を抱きつつ、S先生直筆の招待状を持って、六本木の新国立美術館に出かけました。

 彫刻の展示室に沢山、作品は並べられていますが、私は、毎年、S先生の作品を見ていますから、作品が、どこにあるのかは、展示室に入った瞬間に解ります。ゴッホの作品は、どの作品を見ても、ゴッホですし、ゴーギャンも同じです。S先生の作品も、強烈なオリジナリティに溢れ、S先生のIdentityは、作品の中に、完膚無きまでに表現されています。つまり、S先生は、amateurではありません。authenticなprofessional artistです。

スニーカーの靴ひもがほどけそうになったので、S先生の作品の前にしゃがみ込んで、まず靴ひもを結び直しました。で、しゃがみ込んだまま、作品を下から眺めました。別段、彫刻作品に限りませんが、上から俯瞰(ふかん)するよりも、下から見上げた方が、細かい部分まで、しっかりと把握できます。上から俯瞰すると、どうしても、頭の中で、勝手な理屈をこね上げてしまうんです。下から見上げる方が、より即物的で、俯瞰は、観念的、概念的だと云うのが、私の持論です。

 しゃがんだまま、右横に移動しました。横から見てしまうと、「あら?」って感じの「組(あら)が見えてしまいます(あっ、ここはオヤジギャグです。素直に笑って下さい)。その後、背後に廻りました。「うわぁ」と、思わず歓声を上げそうになりました。背中から腰にかけてのlineが、とんでもなく、ふくよかで、きれいなんです。量感も過不足なしです。久しぶりに、納得させてくれるフォルムを見ました。東日本大震災は、未曾有の悲劇でしたが、大自然の脅威がどうであっても、人間は、やはり人間として、この宇宙の中で、自らの存在意義を、崇高なまでに高らかに、示していると感じました。long long time agoのその昔、ミラノでミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」を見たんですが、その折、背後に廻って、ピエタの後ろ姿を見た時の大感動を、a little思い起こしました。言葉にすると、偽善的になり嘘になります。だから、そういう無駄な抵抗は、なるべくしたくないんですが、強いて蛇足を付け加えるとしたら、eternal なmaternityに、心を打たれたと言えます。歳を取っても、artに感動できる自分を、ゆくりなく、発見できることは、やはり、喜びだし、幸せだと素直に思います。

 と、400字詰め原稿用紙二枚ちょっとを使って、彫刻の感想文っぽいものを書いてしまいました。タイトルは、受験ノートなので、多少、そっち方面のことも、フォローしておきます。

[駄目な学習の10のルール」のその1は、「教科書をただ漫然と読む」です。私はルーツ世界史の教師です。世界史Bで大学受験も経験しています。その昔の社会科の勉強法と云うのは、やたら根性主義でした。教科書は、最低、20回は読めとか、指の骨が曲がるまで、わら半紙に世界史の用語を書きまくれ、などと云う指導法が、私が受験生の頃は、はびこっていました。ビリギャルが、日本史のマンガを読んで、慶応のSFCに合格したと云う間違った伝説が流布し始めてから、歴史マンガブームが、起こりました。世界史もマンガ、風の参考書が増えました。高2まででしたら、マンガで概要をつかむのも、悪くはないと思います。高3だと、マンガで時間を消費せず、直接、テキストを読み込んで、問題集に取り組んだ方が、手っ取り早いです。マンガを読んでいるヒマは、正直、もうないと言えます。他の教科のことは、解りませんが、世界史B、日本史Bの場合、教科書は、絶対に読まなければいけません。世界史でしたら、メソポタミアなり、古代エジプトなり、古代ギリシアなどを、ひと区切りつく所まで、まず読む必要があります。その後、その部分の問題を解きます。社会の勉強は、まずテキストを読む、次に問題集を解く、この繰り返しです。当然ですが、解いた問題については、perfectに覚え込んで行きます。いきなり、Z会の百問のような本格的な問題集に、取り組む必要はありません。教科書準拠の基礎的な問題集で、充分です。

 この箇所でのY先生のお言葉は「1ページを読んだら顔を上げて要点を思い出そう」です。別段、これは悪くはないactivityです。これが、やれる人は、やってみてもいいと思います。が、これは、勉強の一種の作法のようなものです。高3の受験生になって、いきなり始めようとしても、正直、そう簡単には、身につかない作法です。

 2番目の蛍光ペンマークのし過ぎがNGと云うのもまあこれも、真実です。付箋を貼る場合も同じです。蛍光ペンで、マークすることによって、勉強した気分になってしまいます。ゴメンナサイ、正直、この段階では、1ミリも勉強してません。物理的にラインを引いただけです。勉強すると云うのは、覚え込み、記憶すると云うことです。さまざまな色の付箋を、きれいに使い分けている生徒もいます。これも、正直、付箋をきれいに貼ることが目的になってしまっています。付箋は、どうしても覚えられない単語、用語、フレーズなどを、後から復習できるように貼っておくべきものです。ただ、整理するために、付箋を貼るのは、無意味です。みなさんの使っている参考書は、すでに整理して書かれているんです。そのことに、気がついてないとしたら、受験生としての基礎力が足りないと言えます。

 ノートをものすごくきれいに取る生徒がし、ます。マーカーなどを駆使して、見た目、美しいノートだと言えます。が、きれいで美しいノートを取る人は、だいたいにおいて、勉強できません。例外は、ほとんどないと思います。きれいにノートを書くと云うことが、目的になっていて、覚え込むと云うことが、疎かになっているんです。

 これも当たり前のことですが、老婆親切で、書いておきます。解ると、できるとは、決定的に違います。授業を聞いて解る、予備校の講習を聞いて解る、テキストを読んで、解る、そんなことは、当たり前のことですし、正直、何でもないことです。その解ったことを、受験本番の時まで、きちんと記憶して、覚えているかどうかが、問われているんです。

受験勉強と云うのは、筋トレと同じです。地味で、結構、退屈な作業なんです。何回も何回も、反復練習して、覚え込む必要があります。わら半紙に書きまくると云う根性主義は、今でも通用すると思います(ただ、わら半紙そのものが、もうなかなか、手に入らなくなりましたが)。


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