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渡米89〜94日目 サンクスギビング、家族でニューヨークへ!?

2023年11月19日(日)〜11月24日(金) 

今、2023年の年の瀬にこのNOTEを書いている。この1ヶ月は、ひたすら忙しく、そして真摯に懸命に映画と向き合うことができた1ヶ月だった。その結晶として、ホラー映画とラブストリーという全く毛色の違った2本の短編映画を制作することができた。僕の知る限り、2本の短編映画をこの短期間に完成させたクラスメイトはいない。今、1ヶ月前のことを思い出すと、果たしてこの無謀とも思えるミッションが成功するのか。とても不安を抱えていた。それだけに、今、無事に納得がいく2本の短編映画を制作することができ、心からほっとしている。

おかげで渡米以来、コンスタントに更新してきたブログの執筆からもすっかり遠のいてしまった。僕の脳は、かなりの一点集中型で、特に作詞・作曲、脚本、編集などのゼロから一を生み出す作業に没頭しているときは、無意識のうちにその周りにある全てのものが見えなくなってしまう傾向にある。特に〆切に追われているはそれが顕著だ。

大学院はメインのクラスの授業は週3日だが、それはまさにそれぞれの課題に対する「〆切」を設けるために存在するようなもの。〆切に向けて、新しい映画を生み出すために今ここにある時間を出来うる限り注ぎ込む。そんな時、いつも頭の中では、映画「Back to the Future」のテーマが鳴り響き、まるで映画「スタンド・バイ・ミー」の少年たちのように、逃げ場のない橋の上を迫ってくる鋼鉄の塊の汽車に追われ、踏み潰されそうにながら全速力で橋を駆け抜ける。そんなイメージが脳内に広がる。

ここにくるまでずっと限りない準備を続けてきた。そして、ずっと燻っていた映画への情熱が、今、抑えようもなく昂っていて、この瞬間を逃したくないと思う。今こそ、映画を撮るときだ。僕の人生はこのためにあったのかもしれないと感じる瞬間がある。そのことはこの上なく幸せなことだ。

その一方で、記憶を記録に残しておかないと、次々と巻き起こる出来事に知らず知らずに上書きされていってしまう。これまでどれだけの記憶を忘却の彼方に追いやってしまったことか。人には「忘れる」という機能が備わっていて、きっとそれはそれで重要な機能を果たしているのだろうけれども、今ここにある時間を忘れたくはないという思いがある。やはり忙しい中でも、いや忙しい中だからこそ、記録に留める作業も確保したい。僕は今、映画を撮るための修行の期間の中で、次々と短編作品を制作しているが、その間にも一緒にここアメリカについてきてくれた子ども達も成長し、望んだ姿とは違うかもしれないが、時を経て変化していく。

非日常が日常になり、日々の小さな変化やきっかけや出会いがいくつもの分岐点となって、振り返ると元いた場所にはもう戻れなくなっていく。望むと望まざるとに関わらず。それはいつか記録した写真のように、今ここにいる時点では当たり前であっても、二度と元に戻ることはない。書くことは記憶とともに、気持ちを整理することにもつながる。最近怒りっぽくなっていないか。驕りや自己憐憫に浸ってはいないか。

自分だけが忙しいわけではなく、一人一人がそれぞれの人生の主人公だ。前のめりになって浮き足立ったような日々の中だからこそ、時に気持ちを落ち着けて、「書く」ことで客観的に自分の気持ちに気づくこともたくさんある。この冬休みの間にも一本の短編映画の制作を控えていて、きっとまた忙しくなって更新ができなくなっていくだろうけれども、まさに黒煙を発して凄まじいい勢いで迫ってくる汽車に全てを塗りつぶされてしまう前に、できる限り、記憶を記録に残していきたい。

と、それが必要なことだとわかっているのでNOTEを更新する勢いを失ってしまった自分に、なんとか書くべき理由を自分に言い聞かせているのが今の僕の正体です。

▼サンクス・ギビング、初めて家族でニューヨークへ
2023年11月23日(木)〜25日(土)
 

ニューヨーク大学時代の恩師であるMarciaが僕たち家族をニューヨークに招いてくれて、サンクスギビングをニューヨークで過ごすことになった。
当日の早朝、長距離バスに乗り遅れないようにボストンのサウスステーションに向かった。サンクスギビングの当日はまるで日本のお正月のような雰囲気で、ニューヨークに向かう道は空いていて、予定よりも1時間近く早くNYのチャイナタウンに着いた。車窓の外に広がる景色に途端に懐かしさが込み上げてくる。

ここニューヨークで暮らしていたのは2005年から2007年の2年間。もう16年も前のことだ。当時、僕たちはまだ結婚したばかりで子どももおらず、僕の目もまだしっかりと見えていた。そして、がむしゃらにドキュメンタリーを学び、必死に未来を切り拓こうとしていた。今もがむしゃらに映画を学び、また新たな未来を切り拓こうとしている。その点では変わらないかもしれない。しかし、僕にはここで暮らしていた時間が、もはやまるでPast Life(前世)のようにも感じられる。NYUを卒業し帰国後、NHKに中途採用で入局し、東京、和歌山、沖縄、東京と赴任し、国内外で数え切れないぐらいのニュースとドキュメンタリーを取材してきた。その間、家族も増えた。懐かしい空気を吸い込い、その匂いに記憶を刺激されながら、過ぎ去った日々を走馬灯のように思い返していた。

Marciaとの待ち合わせに遅れないようにタクシーに乗り、母校ニューヨーク大学のほど近くにあるMarciaのマンションへと向かった。MarciaはパートナーのPeterと長年暮らしているが、Peterとの家に引っ越す前に大学が提供する前から暮らしていたマンションが大学の近くにあり、そのマンションを僕たちに使わせてくれることになったのだ。 

14時前にヴィレッジの一角にあるマンションに到着し、呼び鈴を押すと、ドアを開いてMarciaが出迎えてくれた。Marciaに直接会うのは、2011年にニューヨークを出張で訪れて以来、12年半ぶり。もっとも2020年の夏から今回の留学の準備を始めて、その間、何度も出願に際して推薦状を書いてくれたのみならず、大切な面接の前には、模擬面接まで引き受けてくれた。Marciaの多大なサポートなくしては、絶対に僕たちが今ここにいることはなかった。経済的な後ろ盾がない中で、奨学金と大学院合格という二つの両輪を揃えることが不可欠だったが、自分の力不足もあり、その奇跡にも近い2つがなかなか揃うことはなかったが。

「私はどうすればあなたをここに再び呼び寄せることができるか考えている」

「あなたは世界中から集まってくる才能、しかも圧倒的に若い才能と戦っている」

2020年から準備を始めて、その過程の中で何度も不合格や不採用を突きつけられ、果たしてもはや今回の渡米が実現できるのか、不安を抱えていたとき、Marciaはそう言って現実を指し示しながらも、僕を励まし、決してそれが実現不可能だと告げることはなかった。Marciaはとても厳しい教授として知られていて、多くのクラスメイトが彼女のことを恐れていたが、僕にはその厳しさの奥にある愛情がとてもよくわかっていた。そして大学教授でありながらも現役のドキュメンタリーフィルムメーカーであるMarciaを僕は心から尊敬していた。

マンションに到着後、出迎えてくれたMarciaは全く時間の経過を感じさせなかった。タンゴを習っているからか、今でも姿勢がよくすらっとしていて、ハグするとその年齢にも関わらず無駄な贅肉が全く着いていないことがわかる。彼女はいつもストイックで、人生を楽しみながらも飽くなき探究を続けている。僕もそういう人間でありたいと常に思う。 

初めて訪れたMarciaのマンションはとても広々としていて、彼女の好きな絵や写真や本やCDが心地よい家具の中に調和して収まっていた。そこは、まさにMarciaの脳内を訪れているかのような感覚がした。リビングに寝室、シャワールーム、キッチンと各部屋を案内してくれた。 

「鍵は帰るときに、ここに置いてくれればいいから」
「え、最終日には会えないんですか」

僕たち家族に気を使わせたくないのだろう。彼女の粋な計らいに感謝の念を禁じ得なかった。

母校ニューヨーク大学の近くにある懐かしい公園 ワシントンスクエア


その夕方、MarciaとPeterが僕たちをウェストビレッジにある中庭つきのマンションに招いてくれた。中庭に入ると愛犬のタンゴが近づいてきて、すっかり次男を気に入ったようで終始とても仲良く遊んでいた。 

MarciaとPeterとは、NYUの卒業制作ドキュメンタリーの取材で夫婦でガーナに長期滞在していた際にもふたりが気にかけて訪れてくれたこともあり、慣れない生活環境の中で僕のために頑張っている妻を気遣い、Peterが僕をたしなめくれたこともあった。 

「Marikoは大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です」
 

ガーナの沿岸部にあるアダという村で、あるラジオ局の取材を続けていた際、僕たちは夫婦でラジオ局を運営するコフィの家にホームステイさせてもらっていた。現地ではかなりしっかりした家で、決して貧しい粗末な家ではないのだが、夜になると寝室にも沢山のあの虫が入ってきて、とてもいい生活環境とは呼べなかった。それでも僕は郷にいっては郷に従えというものと考えて彼らと同じご飯を食べて、寝食を共にさせてもらっていたのだが、妻は心身ともに疲れ切っていた。現地にやってきたPeterがその様子を見かねて、僕に電話をしてきたのだった。 

「Takayaに聞いてるんじゃない。Marikoに聞いてごらんなさい」

そのPeterの言葉にハッと目が覚めたような思いがして、その翌日から妻のことを気遣い、近くの衛生環境の良いホテルに移り、取材を継続した。Peterのことをその時父のように感じたのを覚えている。 

「以前、僕が知っていたTakayaはもちろんすでに大人だったけれども、まだ大人になったばかりの赤ちゃんのような大人だった。でも今はこうやって子供たちもいて、すっかり大人の男になったね」 


サンクスギビンの晩餐の席で隣に座ったPeterが僕にそう言ってくれた。PeterとMarciaが作ってくれたサンクスギビングの伝統的な料理はとても美味しく、僕は最後の最後までターキーを平らげてしまった。

「エマーソンはどう?」

食事を終える頃に、僕の隣にやってきたMarciaが僕にそう尋ねた。 

「正直に言っていいですか?」
「もちろん」
「あなたのクラスほど厳しくはありません」

Marciaのクラスはとても厳しく、特に最初の秋学期は、なんとか翌週までに出された課題をこなすべく、ネタを見つけてはカメラを持ってニューヨークの街を渡り歩き、徹夜で編集をしてなんとか死に物狂いで毎週出される課題に食らいていったのを覚えている。それはとても実践的で、まさに獅子が自らの子供を鍛えるために谷底に突き落とすような愛情と厳しさに溢れたクラスだった。それに比べて、エマーソンの課題はもちろん楽なわけではないが、同じ厳しさに遭遇すること予想してやってきた僕にとっては、そこまでの厳しさにはまだ直面していないように感じている。最もそれは僕自身が二度目の大学院留学であり、多くの実務経験を詰んだ上でここにいるということもあるのかもしれないけれども。 

「MarciaにとってTakayaはとても特別な教え子なんだよ」 

以前Peterが僕にそう話してくれたことを覚えている。Marciaは僕の話にとても静かに耳を傾けてくれていた。

「来年のサンクスギビングも遊びにきなさい」 

その時はこの部屋に泊まるといいわよとMarciaがマンションの一室を案内してくれた。家族を伴ってMarciaとPeterのもとを再び訪れることができてこと、そしてこうやってまた二人と話をしていることが、まるで奇跡のように思えた。

 ニューヨークでの翌日は、行きつけだったチャイナタウンの小籠包の美味しい店Joe’s Shanghaiで昼食を済ませ、その後、僕たちが以前暮らしていた15番街のマンション近くまで歩いた。同じく行きつけのイタリア系のケーキ屋Veniero's(ベニーロズ)で家族でケーキを頬張り、ユニオンスクエアの出店を歩き、その後タイムズスクエアに移動し、紀伊國屋で子供達が欲しがった日本語の本を買い込み、その後夜7時から子供向けのミュージカルGazillion Bubble Showを楽しんだ。

シャボン玉が飛び交うショーに長男も次男もも心底楽しんでいる様子で、あまりこちらにきてから楽しい思いをさせてあげられていないような負い目を感じてきた僕はその横顔を見て、とても嬉しく思った。

その後、家族はMarciaのマンションへと帰宅し、僕は一人、ジャズの老舗ヴィレッジバンガードへと向かった。本当は昨日、ジャズピアニストJason Morgan(ジェイソン・モラン)の演奏を堪能するべくチケットを取っていたのだが、昨晩MarciaとPeterの元を離れた後で心地よく酔っていて旅の疲れも手伝って眠りについてしまった。

ヴィレッジバンガードは22歳の頃、世界一周の旅の最後に訪れたニューヨークで、まさに僕にジャズの素晴らしさを教えてくれた店だ。どうしてもそのヴァンガードを訪れたくて、まるでどこかにおき忘れた自らの影を探すかのようにして店に辿り着いた。昨日実は来る予定だったことを伝えると、マネージャーに話を通してくれて、なんと昨日のチケットでそのまま入店させてくれた。やはりその粋な心意気に感謝しながら、演奏を堪能し、すっかり見えにくくなってしまった夜道を一人慎重に歩きながら家路についた。

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