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鎌倉北条氏のルーツとは? 天下をとった一族の謎多き出自に迫る

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『逃げ上手の若君』の影響で、近年、鎌倉北条氏の人気が急上昇中のようです(ほんとか?)。そこで、今回は鎌倉幕府を牛耳った北条氏がいかにして天下を取ったのか、そのルーツを掘り下げたいと思います。歴史マニアもそうでない人も、これを読めば「北条ってスゴくね?」ってなること間違いなし!です。

北条のルーツは平直方?

さてさて、北条氏といえば、鎌倉幕府の屋台骨を支えた一族ですが、そのルーツがどこにあるのか、ちょっと気になりませんか? 実はこれ、公式記録である『吾妻鏡』をひもとけば、さっそく答えが載っています。「北条氏は平直方(たいらのなおかた)の子孫である!」と、はっきり記録されているんです。

爰に上総介平直方朝臣の五代の孫、北条四郎時政主は当国の豪傑なり。武衛を以て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕す

『吾妻鏡』第1巻治承4年4月27日

この記述が出てくるのは、平家討伐の令旨が源頼朝公に届いたとき。頼朝公が真っ先に相談したのが、北条時政さんだったとか。この時、『吾妻鏡』は時政さんを「平直方から5代目の孫」と紹介しているんですね。

で、この平直方さん、どんな人かというと……おっと、意外にも平安時代の軍事貴族! 摂関家に仕え、いざという時に武力を振るう立場だったとか。でも、関東で「平忠常の乱」が起きたとき、直方さんは討伐に失敗し、バトンタッチ。代わりに登場したのが清和源氏の源頼信でした。

頼信さんは見事に乱を鎮圧し、関東で大人気に。これに焦ったのかどうか知りませんが、直方さんは「頼信さん、娘を差し上げます!」と娘婿に迎え、ここから歴史が動き出します。この結びつきで生まれたのが、あの八幡太郎義家! さらに時が流れ、その血筋をたどると義家から5代孫が頼朝公、直方から5大孫が北条時政さんにつながっていくというわけ。その2人が協力して平氏を倒し、鎌倉に幕府を開くなんて、ドラマチックすぎやしませんか?

とはいえ、「話がうますぎる!」と突っ込む歴史家も少なくありません。なぜなら、『吾妻鏡』って、北条氏が自分たちの正統性をアピールするために編纂したとされる本だからです。北条家のルーツ話も、彼らが都合よく作り上げた可能性大というわけです。

さあ、あなたはどう思いますか? 北条氏は平直方の子孫、それとも歴史のうまい作り話? 考えながら読むと、歴史って案外楽しいものです。

時政以前の北条氏の系図を追ってみた!

「捏造じゃないの?」なんて声はひとまずおくとして、直方さんから時政さんへの北条氏の系図を見ていきましょう。もっとも北条氏の系図は何種類もあって内容もまちまち。これといった確定的なものがないのです(泣)。
ただし平直方を祖としていること、時家を初代としていることは共通しています。少なくとも北条氏が直方を一族のアイデンティティと考えていたことが伺えます。

時政以前の鎌倉北条氏略系図

『尊卑分脈』によると、直方さんには「維方」と「聖範(阿多美禅師)」という子がいたそうです。本来の嫡流は[維方→盛方]ですが、この「盛方」は不幸にも「流人」とされて「違勅により誅された」とあります。「盛方」の名前がない系図もあるのですが、ひょつとすると不名誉だからと削除されたのかもしれません。

で、「盛方」の代わりに家を継いだのが、伊豆山権現で出家していた阿多美禅師こと「聖範」になります。「聖範」は阿多美(熱海)に進出し、その子孫が伊豆国田方郡に土着し、勢力を伸ばし、北条氏につながるというわけです。
『系図纂要』には、「聖範」の子の「時方」という人物が「初めて伊豆北条に移住す」と記されていて、以降、「北条」を名乗るようになったと考えられます。そして、この頃から一族の通字は「時」になったのでしょう。

時方、時家、時兼……時政の父親の名前は?

『吾妻鏡』には時政さんのパパの名前は記されていません。『尊卑文脈』では「時方」を、『続群書類従』では「時家」をパパとしています。他にも「時兼」を父とする系図もあり、正直、確実なことは分かりません。

ただ近年、新しい知見も提示されています。『源平闘諍録』に「時家」は伊勢平氏の平維衡から5代目にあたる兵衛大夫貞時の子で、「北条介」に婿入りしたという記述があります。これが「時家」で時政さんのパパ(あるいはジジ?)だというのです。

加えて、『源氏系図』(北酒出本)には、時家は「伊豆国の住人」で、時家の娘がは12世紀半ばに興福寺の僧兵を率いた大和源氏・悪僧信実の母であると記されています。つまり時家は京武者で、12世紀初めに伊豆の在庁官人をつとめる「北条介」の一族に婿入りし、そこから北条氏が始まったというのです。

また、時政さんは北条の嫡流ではなかったという説もあります。というのも、時政さんの甥で同族にあたる北条時定の卒伝に、時定の父・時兼が「北条介」であったと記されているからです。これが事実なら北条の嫡流は[時兼→時定]であり、時政さんは分家筋ということになります。

けっきょく、わからん!

結局のところ、北条氏のルーツや時政さんに至る系譜は、同時代の有力な史料がさっぱり見つからないのでよくわかりません。少なくとも系図の記載がまちまちだったり、そもそも父親すら確定できない時点で、「時政さん以前の北条家って、大した存在じゃなかったんじゃないの?」というのが妥当な線かもしれません。
実際、頼朝公が挙兵したときも、北条が出した兵はたかだか50騎。三浦や千葉みたいに「どーんと大軍を出しました!」とはいかなかったわけですしね。

それでも北条家は天下を取った。これは完全に時政さんの嗅覚のおかげでしょう。頼朝公に味方した理由も、「だって娘婿だし…」なんて親バカ精神だけじゃないわけです。むしろ、時政さんは「平家の世? いやいや、ウチは頼朝推しで行く!」と、ギャンブル好きのおじさんばりに勝負に出たんです。その覚悟からして、「やっぱり北条氏は平直方さんの血筋って本当?」と思えてきたりもするわけです。

時政さんの嗅覚たるや、ただの坂東武者の猪突猛進じゃなくて、どこか京風の計算高さすら感じませんか? 実際、その後の時政さんは頼朝公の意を汲んで京都との交渉役をしっかりと果していますし、その外交手腕は大したものです。やはり北条の出自は京武者で、坂東武者とはちょっと違うように感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。

ということで、北条氏のルーツをつらつら考えてきたわけですが、実際のところはよくわかりません! やはり『吾妻鏡』や後世につくられた系図に壮大にふりまわされているだけかもしれませんね。

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