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長崎円喜と高資、鎌倉を牛耳った父子はそんなに「悪者」だったのか?

こんにちは、北条高時(のなりきり)です。今回は、私の周囲で暗躍していた長崎円喜・高資の親子について語りたいと思います。大河ドラマ『太平記』では円喜をフランキー堺さんが、高資を西岡徳馬さんが演じていましたね。「逃げ若」でよだれをダラダラ流して呆けている高時の横にいた2人の側近も、おそらく円喜と高資だと思われます。そんな2人について、今日は少しディープに語ってみます。

長崎氏の祖・平盛綱

まずは長崎氏の始まり、平盛綱という男から始めましょう。確たることはわかりませんが、盛綱は平清盛の孫、平資盛の子孫とされています。『吾妻鏡』には承久の乱で、北条泰時公とともに京都向けて先発した18騎のうちの一人として登場してきます。

そういえば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ましたか? 鶴丸という孤児が登場しましたね。そうです、ガッキーが演じる義時公の妻・八重が命を懸けて助けた子です。あの鶴丸が後の平盛綱という話になってましたけど、あれは完全に三谷幸喜さんの創作です。でも、盛綱が伊豆時代から北条家に仕えていたって説もありますから、そこからヒントを得たのかもしれませんね。

史実の盛綱も泰時公に仕えて頭角を現し、御内人のトップとして幕府運営の要職を務めます。その後、息子の盛時、そして孫の頼綱へとその力は受け継がれ、特に頼綱は私の祖父、時宗公の下で御内人の筆頭・内管領として偉そうに振る舞っておりました。大河ドラマ『北条時宗』で北村一輝さんが演じていたあの人です。かなり怪しい奴に描かれてましたね。

頼綱には、弟なのか、甥なのか、それとも従兄弟なのか、そこははっきりしない親族がいました。それが「長崎光綱」という男です。光綱は、伊豆国田方郡長崎郷(今の静岡県伊豆の国市)を領地にしていたことから長崎氏を名乗っていました。『吾妻鏡』によれば、光綱は時宗公が流鏑馬を披露したときに馬を準備したり、時頼公の臨終のときにも側近くで控えていたりと、結構いいポジションを取っていました。

さて、蒙古襲来を退けた時宗公が亡くなり、父上(貞時)が執権になると大事件が起きました。得宗被官の平頼綱が「おら、得宗被官の力を見せたるわ!」とばかりに、御家人のリーダー格だった安達泰盛を討ったのです(霜月騒動)。でも、その後、頼綱の専横っぷりに父上がキレちゃって、今度は頼綱が殺される羽目に(平禅門の乱)。いや、幕府の権力闘争って怖いですよ。この時、光綱はしっかり父上に味方したおかげで、長崎氏のトップに上り詰めたんです。なんとも立ち回り上手!です。

光綱が没した後、家督を継いだのが長崎円喜(高綱)です。円喜は父上に大いに信頼され、内管領と侍所所司を兼任するというスーパーキャリアとして活躍します。影で父上を支えながら、鎌倉幕府の実力者として幅を利かせていくのです。

貞時・高時を支えた内管領・長崎円喜

応長元年(1311)、父上が亡くなりました。そのとき私・高時はまだ9歳。そりゃあ父上も心配でたまらなかったのでしょう。「うちの高時、大丈夫かねぇ…」なんて思いながら、円喜と安達時顕に「頼むからうちの子をしっかり見てやってくれ」とお願いしていました。

さて、この円喜、私にとってはかなり小うるさいオヤジでして。「得宗たる者、こうあるべし!」なんて、まるで学校の先生みたいにしつこく教えてくるわけです。正直言って、「ウザいなぁ…」と思うこともありましたが、今振り返れば、彼の言葉には愛がありましたね。現代で言うなら、小学校高学年の私に、トップとしての心得をみっちり叩き込んでくれたわけです。そんな円喜を、私は鬱陶しいながらも父親代わりに思い、何かあれば頼りにしていました。

正和5年(1316)、ついに私が14歳で第14代執権に就任することになります。思春期ど真ん中でいきなり幕府トップですよ。いやぁ、プレッシャーがハンパない! でも、そんな私を円喜はしっかりと支えてくれました。この年、円喜は「もう年だし…」と内管領の役目を息子の高資に譲ったのですが、親子で私をフォローしてくれたのです。

ちなみに、『増鏡』にはこんなことが書かれています

相模守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ愛しける。これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。

『増鏡』

「犬くひ」「田楽」とか、イメージ操作やりすぎ! その抗弁は今はしません。確かに私は身体も弱いし、闘犬や田楽が好きでしたからまったくの嘘というわけではありませんから。ただ、そんな私をカバーしてくれたのが円喜だったわけで、その恩には本当に感謝しています。円喜の助けがなければ、まだ中学生レベルの私に執権なんてとてもつとまりませんでした。とはいえ、私を御輿として担ぎ上げての「世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘」という様は、御家人たちの不平不満へとつながっていったようです。

幕政を混乱させた長崎高資

さて、問題は円喜の子・長崎高資です。正和5年(1316)ごろ、高資は内管領に就任しますが、その評判はすこぶる悪い! 特に評判を落としたのが奥州で起きた安藤氏の乱への対処でした。得宗被官で蝦夷代官を務めていた安藤家でお家騒動が起きたのですが、高資は両方から賄賂をバッチリもらっておいて、「よし、君たちにはこうしなさい!」みたいに適当な指示を両方に出しちゃうんです。その結果、蝦夷の民を巻き込んでの大乱が発生したのです。

元亨二年ノ春奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ、彼等ガ先祖安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシ津軽ニ置タリケルガ末也、此両人相論スル事アリ、高資数々賄賂ヲ両方ヨリ取リテ、両方ヘ下知ヲナス、彼等ガ方人ノ夷等合戦ヲス、是ニ依テ関東ヨリ打手ヲ度々下ス、多クノ軍勢亡ヒケレドモ、年ヲ重テ事行ヌ、承久三年ヨリ以来、関東ノ下知スル事少モ人背ク事ナカリキ、賤キ者マデモ御教書ナドヲ対スル事ヲ軽シムル事憚リシニ、高資政道不道ヲ行フニヨリ、武威モ軽ク成、世モ乱レソメテ、人モ背キ始シ基成ケリ、爰ニ懸ル折ヲ得テ、内裏ノ近習月卿雲客、依々主上ヲ勧申ス事アリ

『保暦間記』

高資のでたらめのせいで幕府は散々振り回され、その弱体化が明るみに出てしまいます。悪党どもは「チャンス!」とばかりにやりたい放題、幕府の言うことをききません。政情はどんどん不安定になっていき、やがて後醍醐天皇の倒幕運動を招くことになるわけです。高資、ほんととんでもないことをしてくれましたよ。

嘉暦の騒動と長崎父子の専横

正中3年(1326)、私は生来の虚弱体質がたたって、わずか24歳で出家することになりました。執権の激務なんてわたしには無理だったんです。でも、そこからが大騒ぎでした。跡目争いが勃発したんです。

円喜と高資は私の長男・邦時を後継者に考えていました。でも、邦時はまだ幼なすぎるから、その間の中継ぎとして金沢貞顕を執権に据える計画でした。ところが、外戚の安達時顕がこれに猛反発。「邦時の母親は御内人の五大院宗繁の娘だろ! 邦時が執権になったら、いよいよ御内人が幕府を完全支配するじゃないか!」と大騒ぎ。安達は母上と手を組んで、邦時じゃなく弟の泰家を後継にしようと嫌がらせをしまくり、貞顕暗殺の噂すら流れはじめます。

これで貞顕もすっかり参っちゃって、「もう無理です!」とあっさり辞任、出家してしまいました。結局、次の執権には赤橋守時が就任しましたが、その間に高資は安達と手打ちをし、「評定衆」のポジションを手にするのです。

評定衆というのは幕府の中枢中の中枢、行政・司法・立法のすべてを司る最高機関です。それまでは御内人が入ることはなかったんですが、高資が入り込んだことで長崎一族は「内管領」「侍所所司」「寄合衆」「評定衆」まで独占。幕政を完全に牛耳ってしまいました。もはや「得宗専制」どころか「御内人専制」ですよ。こんな状況ですから、不満を持つ者は山ほどいたでしょうが、長崎父子が怖くて誰も声を上げられません。いや、私ですら気を使っていましたからね。執権も得宗もすっかり飾り物です。

内管領・長崎氏の矜持

鎌倉幕府は源頼朝公が開き、わが祖・北条義時公が基盤を整え、泰時公が法律やら制度やらを整備、時頼公が得宗権力を固め、時宗公が蒙古襲来を防ぎ、歴代が武士の「理想郷」をつくってきたわけです。

ところが、どうでしょう。時が経つにつれ、得宗家の家臣である「御内人(みうちびと)」がいつの間にか権力を握り始めましてね。私の代になる頃には、もうすっかり御内人とそのトップである長崎父子が実権を掌握しておりました。現代でいえば財務省の高級官僚みたいなもんでしょうか。

これを見た足利高氏(後の尊氏)は、大河ドラマで「こんな鎌倉あああああ!」と嘆いておりました。まあ、足利は北条と誼を通じてうまい汁を吸ってきた御家人ですから「お前がいうなよ」と言いたくもなりますが、とにかく北条の御内人がやりたい放題やっているのは、御家人にとっては面白くなかったことでしょう。

彼らを抑えることができるのは太守であり執権である私しかいませんでした。でも、私はむしろ「君たちに任せればうまくいくっしょ!」と全力で依存しておりました。そのため、いつの間にか、私も「傀儡」にされてしまいましたけど。ええ、完全にわたくしの責任でございます。

とはいえ、私だって黙ってみていただけではありません。父・貞時公が平頼綱を粛清したように、わたしも長崎父子を排除しようと画策しましたよ! もっとも、この計画は早々にバレて失敗。結局、私にもどうにもできなかったわけですが……いやはや、悲しいものです。まあ、この話はまたあらためてさせてもらいますね。

ただ、長崎円喜という男は、私の父・貞時公の遺言を守り、暗愚なわたくしを懸命に支えてくれたことは間違いありません。北条を、鎌倉を守らねば!という矜持に嘘偽りはなかったはずです。

「私利私欲で内管領がつとまると思うのか、この愚か者!北条家はいま、傾いておるのじゃ。北条が崩れれば幕府も倒れる。そうならぬゆえ血を流してきた、そのことがわからぬのか。このうつけ!」

大河ドラマ「太平記」

大河ドラマ『太平記』の名シーンで、高資が賄賂を取っていたのがバレて、円喜に雷を落とされる場面がありましたが、実際の円喜もまた、こんな人物だったように思います。

まとめ

そうした円喜の覚悟と統制にもかかわらず、時勢は大きく動きます。正慶2年(元弘3)5月22日、新田義貞に攻められて鎌倉は炎に包まれました。北条高時以下一門は東勝寺で自刃、長崎円喜・高資・高重の親子三代もまた、私に殉じて腹を切っています。

つらつら思うに、結局は太守である私が招いた幕府の滅亡でした。「国は一人を以って興り、一人を以って滅びる」といいますからね。鎌倉幕府滅亡後の建武政権、足利幕府がよい世の中だったとは私には到底思えませんが、それを言っても負け犬の遠吠えでしょう。

閑話休題 為政者は言い訳はできません。どうぞ、リーダーの立場におられる方は、われわれを反面教師として日々精進いただければと思います。それでは、ご機嫌よう。

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