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【ストーンオーシャン論】信仰者であり背教者でもあるプッチ神父について【ジョジョ6部】

現在、アニメ版が地上波で絶賛放送中の『ジョジョの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』。
ストーンオーシャンの敵キャラであるプッチ神父は、肩書の通り聖職者であり信仰を持つ人物ですが、しかし同時に背教者でもあります。それはジョジョ5部から引き継いだ、運命の不変性と祈りの価値というテーマ性を更に深めるためではないでしょうか。

……みたいな内容を、このnoteでは書きます。文量は5000字前後です。
リキエル戦以降の内容には触れないので、原作未読&アニメは地上波で追ってる勢も読んで大丈夫です。


前提:5部は信仰の再評価がテーマである

6部を語る前提として、5部に軽く触れましょう。

ジョジョ5部は、変えられない辛い運命の中で、信仰とか祈りとか宗教とかいうものの再評価を訴える作品だ、と私は考えています。
特に、エピローグにして前日談である、眠れる奴隷のエピソードでは、運命が不変であることと、せめて祈りを捧げたいということが強調されます。
ここでいう祈りや信仰とは、キリスト教やら神道やら、教義化組織化された「いわゆる宗教」ではなくて、もっと素朴で原始的な祈りのことです。
また、変えられない運命というのは、作中で主に描写されたオカルト的・超自然的意味に限らず、ブチャラティ達の生まれ育ちとか、現実の貧困家庭や事故被害者などの、がんばってもどうしようもなさそうな実際の問題全般も含めることができます。
現代物質文明や合理主義では、祈りや信仰は実際の問題解決に対して無力だとされますが(メンタルトレーニングとかはさておく)、それらを荒木飛呂彦は再評価しようとしたのでしょう。

現実の人生にはどれだけ頑張っても改善できない辛い状況ってのがあって、それはまるで決められた運命だ。状況のどうしようもなさに絶望したくなることがある。それでも「運命は変えられるかもしれない」「自分は駄目でも次世代がひきついでくれるはず」「次世代も含め全てが失敗でも、前向きに過ごすことには価値や美しさがあるはず」と信じ祈って、前向きに生きていこう。別に信仰を持ったからって運命=辛い現実は変わらないままだけど、そういう信仰で絶望を誤魔化し、生きる張り合いを保つのが、きっと人間らしさだから……。
みたいな、後ろ向きな前向きさが、私の理解した5部のテーマです。

だから、ジョルノがディアボロを倒したのだって、たぶん物語テーマに絶対必要なわけじゃないんですよね。
勝利というよい結果がある方がバトル漫画としては読み心地がよくて完成度は高まります。でも、テーマだけに注目すれば、ジョルノたちが負けて終わっても、「結果が悪かろうと、前を向くことには意味があるのだと信仰することが大事」ということは伝えられます。以下の記事でも、勝利が描きたいのではないという荒木さんの言葉が紹介されています。

僕が描きたいのは勝利のカタルシスでは無いんです。そのほうがウケがいいのかもしれないけど、僕が描きたいものからはずれてくる。

コロナ禍に響く荒木飛呂彦さんの言葉、「真実に向かおうとする意思」

ジョルノがDIO(イタリア語で神)の息子であること、スタンドが天使っぽい見た目で生命付与能力を持つこと、舞台がキリスト教の聖地ローマであること、色んな宗教画に似たポーズが描かれることなども、5部のテーマが信仰と宗教の再評価だからと考えればしっくりきます。
「無駄なものは嫌い」なジョルノが主人公の物語、そのエピローグで祈りや信仰を強調するという作り。それは、祈りや、更には人間という存在自体が、運命に対し無力であり、定められたものをなぞって何も新規性をもたらさないのだから無意味だが、それでも人間さらしさとしては無駄ではないと信じよう、というメッセージになっているのです。
……5部については、あとでもっと長く書いた記事をアップしたい。三年くらい書いていてまとまってないですが。


本題:6部はプッチという信仰者が敵になってしまった

そんで、ジョジョ6部ストーンオーシャン。
5部で信仰とか宗教の評価をアゲた上で描かれたストーンオーシャンなのですが、ここではなんと、聖職者、宗教者であり信仰者であるプッチ神父が敵なのです。
直前まで主人公の特徴であり、人間らしさだとされていた要素が、敵に備わってしまった! そしてジョリーンたちは、罪と罰を背負う囚人である!
これはエンタメとして盛り上がるだけでなく、テーマ的にも深化が期待できる構図です。
荒木飛呂彦は勢い重視で描きつつもテーマ性は真面目に考えているので、自分が5部で出した結論を自分で揺るがすことで更に深い真理を考えるという、ヘーゲル的弁証法みたいなことを長期シリーズでやっているんですね。

プッチは、ただ職業的に神父だというだけではありません。
彼には多くのピンチが訪れ、それらを幸運、引力、出会い、理想に向かう心で生き延び、そして天国に至るための力を増していくという悪役らしくない道程を歩みます。
それに承太郎との中がギクシャクしてなかなかジョースターの血統を受け入れなかったジョリーンと違ってプッチはDIOの遺産を受け継ぎますし、さらには星型の痣まで身につけます。
主人公補正を思わせるプッチの成長過程は、彼が価値ある信仰者であり主人公であるのだと、世界や運命が認めているかのようです。
特に、緑の赤ん坊と同化した新たなプッチに様々な「3」が引き寄せられ、そしてウンガロ、リキエル、ヴェルサスの三人が集まる描写などは、キリストが誕生したときに東方の三賢者が乳香、没薬、黄金を持ってやってきたことの再現であり、プッチが上っ面の信仰者ではなく、超自然的な聖性や祝福をまとっていることを感じさせます。


本題2:プッチは背教者でもある

しかし、同時にプッチが背教者であることも暗示されています。
ホワイトスネイクというスタンド名は、キリスト教において悪魔の化身であり、アダムとイブを誘惑した蛇に繋がります。
白というのも、黙示録で災厄をもたらすとされる四騎士(馬の乗り手)の一人目、ホワイトライダーと同じ色です。また英語版ではバンド名に由来するホワイトスネイクが使えないので、Pale Snakeになっていますが、こちらは四人目の騎手であるPale Rider(蒼白い騎士)を思わせます。
ホワイトスネイクの体に描かれたGACTは、遺伝子の塩基配列を構成するグアニン、アデニン、シトシン、チミンですが、遺伝子工学は倫理的観点からしばしば議論の的になり、とりわけキリスト教倫理からは問題視されやすい事柄です。
さらに、プッチが主に何を信仰しているかといえば、イエス=キリストではなく、神の名を持つ吸血鬼DIOではないでしょうか。プッチが天国を目指す方法もキリスト教的な物ではなく、DIOが残したやり方です。

以上からわかるように、プッチは信仰者でありつつ、背教者なのです。
じゃあキリストは裏切っている代わりにDIOへの敬虔な信仰者なのか?
それも微妙なところです。
プッチはしばしば――たいてい挑発や罵倒のために――聖書の言葉を引用します。
キリスト教に対して背教者であるくせに、咄嗟に出てくるくらいプッチの心身には聖書が根付いているわけです。
もちろん、日々の仕事で説教する時に使っているでしょうから、たとえ精神的にはキリストよりDIOに傾倒していても口から出るのは聖書の言葉ですというのはおかしな描写ではないですが、それでも頻度の多さや面白い引用の仕方が印象に残るため、読者や視聴者が「プッチはDIO信者というよりキリスト教神父」というイメージを持ち続けられるようになっています。
ついでに言えば、プッチがDIOの思想をどれだけ理解していたかもよくわからりません。DIOがプッチに見せていた友情は本物だったのか? 友情は本物だとしても、思想をどれだけ語ったのか? 語った思想を、プッチは誠実に理解したのか?
キリスト教神父でありながらDIO信者、DIO信者でありながらキリスト教にどっぷり。
プッチはどちらに対しても背教者である二重の裏切り者、心の中に十字架を二種類掲げているダブルクロスです。

だいたい、プッチからDIOへの愛情と友情を表したとされる「君は王の中の王だ。(略)神を愛するように君のことを愛している」ってセリフもいかがなものかって話ですよ。
既に散々悪事をしているプッチがそれを言っても、お前キリストの教えに反しまくってるし、大して神のこと愛してなくない? って感じです。それに、王の中の王って聖書的にはキリストを指すと聞きかじったんですが(違ったら訂正お願いします)、面白半分で人間と犬を合成する残虐無比なDIOに、キリストと並べるどころかキリストと同様の称号を与えるのってかなりの背徳じゃないですか?
DIO側からしても、嬉しいものでしょうか。悪の帝王DIO様ですよ。この世を支配するDIO様的には自分と並んでいいと考えるのジョナサンくらいであり、ちょっとハイな時だったら、「頂点はこのDIO! 神は俺以下の存在に過ぎぬ! このDIOと神への二股、死をもって償え! WRYYYY――ッ!」とかされてたかもしれません。よかったな、「君がいなくなるのが怖かったのだ……」みたいな甘ったるい反応で。
もっとも、6部DIOは妙に穏やかなんで、プチDIO二次創作以外でこんなキレ方するかというとしないとは思いますが……でもあの穏やかさはかっこつけてるだけで急にキレるという可能性もゼロではないか……。まあいいやDIO様のお気持ちはここでは重要ではない。
大事なのは、物語内の役割として、プッチが背教者で裏切り者という性質を持っていることです。

お前は浮気者だよォプッチ神父ゥ~~~。
淫蕩神父のフィリッポ・リッピの伝記がお似合いだぜェ~~~~。
相手を煽る時に聖書じゃなくてDIOの言葉を引用してればもっと気合の入った信仰者になれるんじゃねえかなァ~~。
FFに対しても「カエルの小便にまみれて生きる下衆なプランクトンの分際で!」とか言ってたらDIO信者として筋が通ったのによお~~~。
バツ2(ダブルクロス)の浮気者がよオォ~~~~~。

とはいえ……『裏切り者』もまた、ジョルノ達と同じ属性です。(ディアボロが先にブチャラティの心を裏切っていますが)
去ったものから何かを受け継ぎ、更に先へ進めて真実や天国へ向かう意志があるのも、ジョルノと重なります。
それでも私たちの多くにとってはジョリーン達の方が「正しいことの白」の中にいるように見えはしますが、果たしてそれはどれほど確かなものなのか……?

結び:過酷な運命の中で人間讃歌はどううたえるか

ジョジョは人間讃歌の物語です。
1巻単行本の作者コメントで書かれたこのテーマの追求は、人間のどこが讃歌に値するかの答えを変え続けながら、36年経った今でも続いています。
そして、3部や4部からは、強大で過酷な運命(概ねラスボスがその象徴となる)の前で人間はどうふるまうべきか、運命に翻弄される中で人間の美しさはどこにあるかを考える物語になってきます。

4部では、バイツァ・ダストによって決定された敗北の運命に直面しても、勇気と知恵と希望があれば、川尻早人のような一般人でも運命を打ち破れることを描きました。
5部では、王道少年漫画や過去のジョジョ的な正義=勝利論では打ち破れない運命(解決困難な現実)の存在を認めました。その上で、無力ではあってもせめて祈りと信仰で絶望を誤魔化し前向きにあり続けることが人間らしさだと描きました。
そして、6部です。
6部の敵であるプッチ神父は、無力な人間に残された心の支えであるはずの祈りや信仰を担う聖職者であり、背教者でもあります。

ジョリーン達とプッチ、そして作者は、6部では運命をどのように考え、どのように向き合うのか?
新月の時に向かってジョリーンとプッチはどのような結末を迎えるのか?
何が善で何が悪か? 何が幸福で何が不幸か? 人間の素晴らしさとはどこにあるのか?

運命や祈り、そして人間の存在意義について思いを馳せつつアニメを見たり原作を読んだりすると、ストーンオーシャンはさらに面白くなるかもしれません。
そしてその感想をネットのオープンスペースに書いてください、読みたいので。


参考リンク

5部の運命論については、京都大学の哲学者である山口尚さんの論文が大いに刺激になりました。無料で読めて、分量も文章も読みやすく面白いので強くおすすめします。

山口さんはnoteも書かれており、真面目さとユーモアがいい感じに混じっています。

プッチの聖職者らしさと背教者らしさについては、ブログ『あれかこれか、キマイラ』のジョジョ論を参考にしました。このブログのジョジョ記事は10個ありますが、どれも面白いです。

あと連載中のスピンオフ漫画、クレイジー・Dの悪霊的失恋もよろしく。シナリオが私の好きな作家であり、屈指のジョジョファンである上遠野浩平なので応援したくなる。


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