見出し画像

教養の根幹の言語であるラテン語を学ぶことで、学習の幅が広がります。『教養としてのラテン語の授業 古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』

『教養としてのラテン語の授業 古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』は、ラテン語を通して学問の仕組みを学ぶビジネス書です。

「否定の副詞:インド・ヨーロッパ祖語の“否定”を意味する概念である夜に流れる水の曖昧さ」「言語は自分を表現するための手段であり、世界を理解するための枠組みです」「学問:知の窓から人間と人生を見つめ、より良い観点と代案を提示するもの」など、言語を枠組みとして捉え、学問を進める原動力とすることができます。

特に「学問:人間と世界を見つめる枠組みを作る作業」は、世界の学問の共通言語であるラテン語の仕組みから見えてくるものです。

「知識がどこ→仕分けて整理整頓する→頭の中の本棚を作る作業」と、探し、仕分けて、整理する枠組みが学問であることを教えてくれます。

学びに意義を見いだせないサラリーマンは、学問の成り立ちを知ることで意義を見いだせるようになるかもしれませんね。

 

「人生とは絶えず、自分の中の長所(meritum)と短所(defectus)を自問し、選択する過程」「真の教育:学生自身が進んで勉強したくなる動機を与えてやること」「今日は私が棺に入り、明日はあなたが棺に入るのだから、他人の死を通して自らの死を考えてみなさい」などを通して、ラテン語が醸し出す哲学を学ぶことができます。

特に「期待した瞬間が過ぎ去ると、人間は絶望する」は、絶望へ至るシステムを教えてくれます。

「大きく期待した瞬間が過ぎ去った後に、人は、自分の力ではどうにもできないもっと大きな何かを逃したような虚しさを感じるものだ」と、期待した成果が得られなくなってしまうと、絶望へ陥ってしまうのです。

そうならないように、期待せずに自分の望みに邁進する必要があります。

「自分の望み→信じて突き進む→成し遂げた後→自分の本当の望みはもっと別のものだったとわかる」という道を進むのです。

かつての前山のように絶望に沈んでしまったサラリーマンは、別の道を選ぶ必要があるでしょう。

 

オタクの視点から言うと、「知識があればそれだけ世界を見る解像度が上がり、物事がよく見えるようになる」に刺さりました。

オタクは、アニメ/マンガ/ラノベなどの知識を集めるのは得意です。

しかし、それが快楽を満足させるだけで、物事を見る目を養う行為だとは思ってはいないからです。

「自分を客観的に見つめると同時に、外部の情報を受け入れる寛容さを持つ」ことで、世界を見る視点も変わります。

自己肯定感の低い前山のようなオタクは、自分を成長できる手段があることを認識するといいでしょう。

 

#教養としてのラテン語の授業 #古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流 #ハンドンイル #本村凌二 #岡崎暢子 #ダイヤモンド社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?