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読書日記#03:生き方は自分で決められる~西加奈子『くもをさがす』(前編)

大切な人に誕生日や記念日のプレゼントを渡すときに、何を贈ればよいか、迷った経験は、誰しもあることと思う。どんなに親しい間柄であっても、これで喜んでくれるのか、他の人からも同じようなものをもらっているのではないか、と考えだして、何も決まらないまま時間が過ぎていく・・・そんな経験をしたことがあるのは決して私だけではないと思う。そう思いたい。

そんなときに、私がおすすめするのは本のプレゼントである。自分を変えた一冊、辛いときに心のよすがにしていた一冊、幼少期の自分を育ててくれた一冊。活字の本に限らず、絵本や漫画でもかまわない。大切な人に一冊の本を贈るときにどんな本を選ぶのか。そこにその人の人柄が現れているように思える。もっとも、そのためにはある程度本を読んだ経験があって、「お気に入りの本」というものがなければならないのだが。

本を読むということ。それは、ひたすら作者あるいは自分と向き合い、思索を深める営みでもある。そんな最中に、一瞬でも自分のことが思い浮かべてくれるということは、とても嬉しいことだ。

「この本を君に読んでほしいと思った」そう言ってもらえた初めての日のことは、今でもはっきりと覚えている。その本はこれ以上ない贈り物で、今でも本棚に大切にしまってある。今ではお互い社会人になってしまい、その友人ともなかなか会う機会がなくなってしまったが、この本を手に取るといつも思い出す。前回の投稿をしてからかなり時間が空いてしまったが、今回は昨年のお誕生日に友人が贈ってくれた本を紹介しながら、二回にわたってエッセイを書いてみたい。

今回紹介する本は、西加奈子『くもをさがす』(2023年)というエッセイである。西加奈子と言えば、『サラバ!』『きいろいゾウ』『i(アイ)』など数々の名小説を生み出している名作家で、私も何冊か読んだことがある。にもかかわらず、この人の本のなかで一冊だけ勧めてほしい、と言われたら迷うことなくこのエッセイを選ぶ。それほどまでに、この本には考えさせられるところが多かった。それはコロナ禍を海外で過ごすという同じ経験を私もしていたからか、自分の身体や自分らしさについて思索をめぐらすことが私自身も多かったからなのかもしれない。

エッセイのはじまりは、コロナ禍の2021年、カナダ滞在中に乳がんを宣告されたところである。「闘病日記」と銘打ちながらも、語られるテーマは実に多種多様である。生と死、身体と心、ジェンダーとファッション、生命と倫理、日本とアメリカ、個人と集団。何度読んでも、思索は尽きない。「読み終わらない本」というのは、まさにこのような本のことを言うのかもしれない。確かに、今の自分にぴったりだと思った。

私にとって最も本質的で根源的なテーマは、「人はなぜ生きるのか」という話題である。逆説的かもしれないが、人は「死」を意識して初めて、「生きる」ということを深く考えることができるのかもしれない。余命が刻一刻と迫った人は、一体何のために生きるのだろうか。自分に降りかかった災難に、どう向き合い、どう受け入れるのだろうか。自分の運命を受け止めて、なお生きようする人間の有り様を、どう受け止めたらいいのだろうか。

評価されることへの違和感

ある日、コニーが言った。
「みんな私たちのこと勇敢って言うやん?うちはさ、自分のこと勇敢とは思わんのよ。自分で選んだ道やないし。」
それは私も思っていたことだったから、とても嬉しかった。
「分かる!うちも思わへん。やらな仕方ないって感じよな。」
「怖いのはめっちゃ怖いんよな。怖さを克服するというよりは、怖さを認めながらやるって感じ?」

ある日突然、がんを宣告される。死と隣り合わせになる。まさに青天の霹靂とも言える運命を受け止めて、前に進もうとする。その怖さを乗り越えて、それでもなお生きようとする。その生き様は、「勇敢」と言えば勇敢なのかもしれない。

けれど、当たり前のことだが、がんになりたくてなる人など誰もいない。死ぬかもしれないということを、自分が自分でなくなることを、恐れない人などいるわけがない。だけれども、怖いのだけれども、それでも前に進むしかない。そんな気持ちで彼女らは生きている。それは、「勇敢だ」とか「素晴らしい」と簡単に済ませていいものだろうか。その「勇敢だ」とか「すごい」という言葉は、一体何に対する褒め言葉なのだろうか。

「すごいね」という言葉は、その人の能力や結果に対する評価にすぎない。どんなに頑張ったとしても、うまくいかなかったのならば、「すごいね」とは言ってもらえない。誤解を恐れずに言えば、その人が成し遂げたことを指しているのであって、その人自身を見ているわけではないのである。

僕自身の幼少期は、ある程度人から言われたことを素直にひととおりこなすことができていた。もちろん、どうしても苦手でできないこともあったが、そういうものはできるだけ避けて通るようにしていたので、苦手なことにぶつかって打ちのめされる、という経験は、少なくとも幼少期にはあまりしたことがない。おかげで家族や先生、友達から褒められることも多かった。

しかし、ある時からーーちょうど小学校高学年か中学生のあたりからだろうかーー「すごいね」と褒められることを素直に喜べなくなっていた。勉強ができてすごい、足が速くてすごい、みんなのことまとめられてすごい。子どもだから、ちょっと何かができるようになっただけで、周りからもすぐに褒められるのが常だった。

けれど、当時の僕は考えていた。「すごい」が私の能力や結果(世間的に言えば「スペック」と言うのかもしれない)に対する賞賛の言葉だとすれば、それができなくなった自分にはいったい何の価値があるのだろうか。もし明日、何かの拍子に全ての記憶を失ったら、もうテストでいい点を取ることはできない。もし明日、交通事故にあって歩けなくなったら、足が速い私はもはや存在しないことになる。「何も持っていない私」「何者でもなくなった私」には、いったい何の価値があるのだろうか。

そもそも、勉強ができるとか、足が速いことは、なぜ価値があるのだろうか。もちろん、その人が並々ならぬ努力をしてできるようになった結果だ、といえばそうなのかもしれない。かわいい女の子だって、かっこいい男の子だって、魅力的に映るのは、美しく魅せる努力を積んできたからこそ。それはかなりの程度真実だと思う。

けれど、身も蓋もないことを言えば、果たしてそれは自分の努力だけで成り立つものなのだろうか。勉強ができるのは、両親がお金を出してよい学校に通わせ、よい教材を用意してくれたからではないのか。優しい性格になれたのは、家族や友人が惜しみなく愛情を注いでくれたからではないのか。それは当たり前に手に入れられるものではないのではないか。

誰もが等しくアクセスできないもの、何かによって得られる・得られないが変わってしまうものには、本当は価値がないのではないだろうか、というある種の違和感があったのである。

「かわいそうな人」とは誰のことか

勉強ができることが価値あることだとしたら、お金がなくて学校に通えない人は「かわいそうな人」なのか。
足が速いことが価値あることだとしたら、生まれつき脚に障害を抱えて歩けない人は「かわいそうな人」なのか。
いわゆる「女性的な美しさ」が価値だとしたら、乳がんを患って胸を切除しなければならなくなった人は、「女性としての価値がない人」なのか。

いや、そんなはずはない。絶対にない。

もちろん、勉強はできるに越したことはないし、速く走れればそれだけ楽しいだろう。同じ性格だったら、ぼろぼろの服を着て週に一度しか風呂に入っていない人よりは、ある程度清潔感のある人と一緒に居たい。それはその通りだ。しかし、その表面を撫でることだけが、最も大切なことではないように思えてならないのである。

解放されたい」。大学に入ってからの僕は、そう思い続けている。人間たるもの、男性たるもの、女性たるもの、学生たるもの、社会人たるもの「こうあるべき」という価値観、不必要に私たちを生きづらくしている常識から、解き放たれたい。その人そのものを見て、もっと奥深いところにある、その人をその人たらしめる存在を見て、心の底から「素敵だね」と言えるようになること、それが私の人生の目標のひとつである。その意味では、私もまだ道半ばである。

本書では、そのような世間的な価値観を「呪い」という言葉で表現している。

もしかしたら私は、他人から見れば「かわいそうな人」なのかもしれない。でも私は、自分のこの体を、心から誇りに思っていた。
そもそも、胸の大きさや形で、私たちの価値を評価されるなんておかしい。年を経るごとに、その思いは強くなったが、長らく自分の身体にかけられていた呪いを解くことはできなかった。
でも、それらをすべて失った今、私は無くした胸に対して、言いようのない愛情を感じた。「どう見えるか」なんて関係なかった。

凝り固まった常識から、「こうあるべき」という呪いから自分を解放する。「どう見えるか」ではなく、私が「どうしたいのか」「どう生きたいのか」。自分の頭で考えて、自分の身体で感じて、自分で選んだ服を着て、あるがままの自分で人と会う。そんな「私」が素敵だなと思えたのなら、これほど幸せなことはないと思う。

苦悩した先に待っている未来

病、災害、戦争。人間関係。この世に生きている限り、人を絶望へと至らしめるきっかけはどこにでも転がっている。それを避けるのが上手な人もいるかもしれないが、思いがけずにその「不幸」をしかと掴み取ってしまうこともある。人間が選ぶことのできない偶然や運命がこの世にあることは否めない事実である。

楽しいことばかりが人生を覆い尽くしている人などおらず、一緒の時間を過ごしているときやSNS上では幸せそうに振る舞っていても、誰しも心や身体に不調を抱えていて、ひとり涙する夜がある。

けれど、もしも人生に意味があるのだとしたら、そのなかで受ける苦難にもまた意味があるはずで、それに対してどのように向き合うか、そこに私たちの人間性が現れるように思う。

『くもをさがす』という本は、闘病生活を必要以上に陰鬱なものとして描いているわけでも、明るいものとして描いているわけでもない。人生が楽しいことばかりでも悲しいことばかりでもないのと同じように、闘病生活の中にも苦しかったことだけではなく、嬉しかったこともあって、それらが織り成す模様を、できるだけ等身大に描いているように思われる。

それはまさに「偶然に左右されることが少なくない人生の出来事に対して、どのように向き合い、どのように応えるか」の記録であり、それこそが生きるということなのではないかと私は思う。

誰のせいでもないのに、人を絶望するような出来事に当たってしまい、あらゆる人の尊厳を剥奪されることがあったとしても、そこでどのように感じ、どのように向き合うか、どのように応えるかは、最期まで自分で選ぶことができる。すべてに絶望して生きる気力を失うのも、なんとか自分なりに生き抜く道を見つけるのも、自分次第なのである。

もちろんその応え方は、すぐにはわからないかもしれないし、すぐに答えを見つける必要もないのかもしれない。むしろ、その答えを捜そうとすること自体が、生きるということなのかもしれない。それは、「問いに答える」ではなく、「問いを生きる」という生き様なのかもしれない。むしろ生きるとは、「答え」の存在しないさまざまな問いに対して、自分の身をもって「応え」続けることなのではないだろうか。

今すぐ答えを捜さないでください。あなたはまだそれを自ら生きておいでにならないのだから。今与えられることはないのです。
すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです。今はあなたは問いを生きてください。
そうすればおそらくあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遙かな日に、答えの中へ生きて行かれることになりましょう。

リルケ『若き詩人への手紙』(新潮文庫)13頁

いくら科学が進歩しても、この世の中で起きていることの多くは依然として人間の理解を超えている。自然が私たちに突き付けてくる課題に対して完璧な仕方をもってして応えることは不可能であり、唯一の答えを見つけてそれを実践するのではなく、不完全でもその問いに応えようとすること、その「不完全さ」が人間らしさなのではないかと思えてならない。

乗り越えることができないような苦難に直面しても、不完全でありながらもそれに応えようとすることで、私たちは人間らしく生きていけるのかもしれない。この本を読んでそのように思った。(次回へ続く)

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