留学日記#16: ホロコーストの歴史を訪ねて(2)
お久しぶりです。今年の7月に留学から帰国してから、およそ4カ月が経ちました。いまさら留学日記?という気もしますが、今から半年前の留学を振り返りながら、まだ書ききれていない話を続けてみたいと思います。
本来であれば、今年の3月にアウシュヴィッツ強制収容所を訪れるはずでした。しかし、2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻を受けて、ポーランドへの訪問は断念せざるを得ませんでした。そこで、代わりにドイツにあるベルゲン・ベルゼン強制収容所跡を訪ねることになりました。そもそもなぜ強制収容所を訪れようと思ったのか、実際に訪れて何を思ったのか。それについては、だいぶ前のnoteでお話ししています。
実はこの後、4月と7月に、オランダとドイツにある2つの遺跡を訪れています。今回は続きということで、半年間の留学中に訪れたホロコースト関連の遺跡について、まとめてお話ししたいと思います。
ヴェステルボルク(Westerbolk)通過収容所
1つ目は、オランダのフローニンゲン郊外にある通過収容所です。かなりアクセスが悪く、フローニンゲン中央駅からSprinterに20分ほど揺られ、駅からローカルバスに15分ほど揺られ、そこからさらに25分歩きました。ほかの訪問客は車で来ていました。
ここはオランダにある数少ないユダヤ人収容所です。もともとは、1930年代後半のドイツにおけるユダヤ人迫害を受けて、オランダへ亡命を希望したユダヤ人を収容するために、オランダ政府が建設した収容施設でした。
第二次世界大戦が勃発し、1940年にドイツがオランダを占領すると、この施設の管理権もドイツ政府が引き継ぎ、主に「東方」(ドイツやポーランド、チェコスロヴァキアなど)の強制収容所・絶滅収容所へ送る前の一時的な収容施設として使われるようになりました。
ユダヤ人を必要以上に警戒させないように、収容所でありながらも一定の自由が与えられていました。施設の中にはスポーツの施設や劇場、学校もあり、病院も併設されていました。「収容所」と聞いて私たちが連想するような、ガス室や人体実験場、大虐殺はここにはありませんでした。
中には展示室があり、ヴェステルボルク建設に至った背景や、ナチスが利用した鉄道網、解放時の映像などについての展示があります。展示はすべてオランダ語だったので、代わりに英訳版のパンフレットを頂いて回りました。
さらに、博物館からバスで10分ほど行ったところに、収容所の跡地が残っています。といっても、今は当時の建物などは残っておらず、当時のバラックや鉄条網、監視塔のほか、輸送に使われた貨車などが復元されて残っています。それ以外はただただ広がる大草原で、何も知らないと、ここに収容所があったとは信じられないほどです。ちなみに近くには電波塔があります。
こちらが、輸送に使われた貨車(本物なのか再現なのかはわかりませんが…)。本来家畜の移送用に使われる貨車に、人間をすし詰めにして移送されました。座るスペースも当然なく、3-4日間貨車に立ちっぱなしでトイレにも行けず、車内は汗と排便の臭いで充満していました。最悪な衛生環境の中で、移送中に命を落とした方も多くいたそうです。
かの有名なアンネ・フランクとその家族も、1944年8月に逮捕されてのち、この収容所に移送されます。そして、同じ年の9月3日、最後の移送列車に載せられて、ポーランドのアウシュヴィッツへと移送されていきました。その後、母のエーディトはアウシュヴィッツで、アンネとその姉マルゴットは、前のブログで訪れたベルゲン・ベルゼンへと移送されて亡くなります。
こちらは、ヴェステルボルクからの移送に使われた線路です。犠牲者への追悼の意を込めて、1942年から1944年までの移送の回数分の枕木が敷かれています。最後に線路が空へと向かっているのも、犠牲者への追悼の意を込めてのものです。
博物館の中にも、収容所跡にも、当時の暮らしや収容生活の実態がわかるような展示が多くあり、少しですがイメージが湧いたような気がしました。また、当時の収容所内の様子が展示で再現されていたり、収容者の生活や移送される貨車の映像がカラー化されていたりと、より一層リアリティをもって感じることができました。
日曜ということもあってなのか、アクセスがかなり悪いにもかかわらず、この日も多くの人が訪れていました。中には家族連れや、遠足とも思われる生徒の集団も。行きのバスで出会った大学生(日本学科専攻で日本語が喋れる!)によると、オランダの小学校では遠足でここを訪れるところも少なくないそうです。ホロコーストの歴史は、ドイツに限らずヨーロッパ全体で共通のアイデンティティになっているのがわかります。
ダッハウ(Dachau)強制収容所
さいごに、今年の7月にはミュンヘン旅行のついでに、ダッハウ強制収容所にも訪れました。こちらはミュンヘン郊外、電車とバスを乗り継いで40分程度で行けることもあり、訪問者もかなり多いです。
こちらはドイツ初の期間強制収容所として、1933年3月に設置されました。この頃は専ら政治犯や反体制分子を収容し、労働させるための施設として使われ、ユダヤ人迫害としての性格は1930年代後半からその色を増してきます。強制収容所は最初からユダヤ人虐殺のための施設ではないし、さらに言えば反ユダヤ人政策も元から絶滅計画であったわけではないという点は、あまり知られていませんが重要かと思います。
こちらの施設は、ベルゲン・ベルゼンやヴェステルボルクとは異なり、当時の建物が一部そのまま残されて博物館のようになっています。バラックの建物が資料館になっており、比較的当時の暮らしがイメージしやすいように思います。
施設の多くは取り壊されて、土台だけになっていましたが、一部バラックが残されていました。上に掲げたのは、恐らくは当時のままのトイレと洗面所です。ガラス越しではなく、間近で見れます。
また、ガス室と焼却場の建物も一棟だけですが遺されていました。
こちらはそのガス室の内部。ずっと白黒で見ていたものが、目の前に現れると、急に臨場感を増してきます。実際に入ってみると、何とも言えない異様な空気が立ち込めます。ガスが出てくる穴や、ガスによって汚染された壁もそのままのかたちで残っています。穴の向こうはクモの巣だらけです。想像するだけで、気分が悪くなります…。
ダッハウ強制収容所は都市部から近いところにあることもあり、多くの学生や若者が(場合によっては修学旅行で)訪れています。なので、良くも悪くもにぎやかです。けれど、バラックとガス室の内部だけは当時のまま、物静かで、時代に取り残されたかのよう。異様な空気が立ち込めていました。
このようなかたちで、時間と安全を考慮した結果、アウシュヴィッツへの訪問は叶いませんでしたが、その代わりにドイツのハノーファーにあるベルゲン=ベルゼン、ミュンヘンにあるダッハウ、そしてオランダにあるヴェステルボルク、この3つの跡地を訪れることができました。決して「定番」ではない場所なので、今後旅行で訪れることはまずないでしょうが、これもまた時間のある留学ならではだったのかなと思います。
現在に遺された問い
果たして、ホロコーストの責任は誰にあったのか?ヒトラーにあるのか、ナチス全体にあるのか、それともドイツ国民にも責任はあったのか?これはホロコーストをめぐって何年も議論してきたテーマです。
ナチス・ドイツやホロコーストについては、大学の科目でも何冊か本を読んで学んできました。実際、学界でもヒトラーに焦点を当てる見方と、ナチス党全体に原因を帰す見方、あるいは当時のドイツ世論に焦点を当てる見方といったように、議論は大きく分かれています。
ハンナ・アーレントは、ナチスの中枢でホロコーストに関わった人間は、決して根からの極悪人ではなく、むしろ「普通の人」であったと書いています。そうだとすれば、ホロコーストはナチスという狂気の集団が起こした狂気の出来事、というだけではなくて、我々にも決して無縁ではないのだと思います。
もしも私たちが当時のドイツに生きていたとしたら、どう行動しただろうか?ナチスに迎合したのか?それとも抵抗したのか?非常に重い問いだと思います。次のような興味深い記述があります。
ドイツ人の多くは反ユダヤ政策に積極的に賛成だったわけでも、あるいは真っ向から反対したわけでもなく、何よりも自分自身が戦争を生き延びることを考えていたのかもしれません。
もちろん、ナチスに抵抗し、ユダヤ人を匿った勇気ある人も多くいました。けれどそれはナチスに捕まり、ユダヤ人と同じように強制収容所に送られるリスクと引き換えでもありました。その中で、多くのドイツ人はむしろ「沈黙する」ことを選んだのではないか。
このことは、究極的には利己的である人間の本性を私たちに突き付けています。どんなに「差別・迫害はダメだ」と心で分かっていたとしても、自分の命と引き換えに行動に出ることができるかと訊かれたら、そう簡単にYesと答えることはできないかもしれません。
ナチスは間違っている、ユダヤ人を守るべきだ、という「価値観」のために自分の命や暮らしを投げ出すことは決して容易ではない。やはり多くの人にとって大切なのは自分の命であって、だからこそ多くのドイツ人は、自分が生き延びることを優先して、無関心を貫いたのだと思います。しかし、無関心とは暗黙の同意と裏返しであり、それが結果的にナチスの政策を「支持」することになりました。
かつて国際政治学者の高坂正堯は、国際政治を見る視角として、「力(安全)」「利益」「価値」の3つの座標軸を掲げました。人間の歴史を動かすものは、「安全」「お金」「価値観」の3つだとも言われます。
その3つの中で何が最も大切なのか?それは簡単な問題ではありませんが、多くの人は、ユダヤ人を守るべき、人種政策に反対すべきという「価値」よりも、自らの「安全」を選んだということになります。
「多様性」や「人権保護」あるいは「平和」は、今まさに世界中で課題になっていて、私たちが取り組むべき問題です。人類の歴史を振り返れば、平和な時代よりも戦争の時代の方が長く、多様性が認められる時代よりも、人権が抑圧される時代のほうが長かった。だからこそ、今これほどまでに「多様性」「人権保護」「平和」が追求されているのだろうと思います。その重要性や尊さが説かれ、世界中でその目標が共有されていることは、私たち人間の「進歩」と言えるかもしれません。
けれど、そうしたある種の「価値」を追求できるのは、自らの「安全」が保たれているからなのかもしれません。言い換えれば、「安全」が保障されていない状況では、「価値」を皆で追求することはできなくなってしまうかもしれない。自分の身が危うくなったときに、ほかの誰かを守るか、自分の身を守るかの決断を迫られることがあるということです。
今まさに人権蹂躙に苦しむ多くの人は、世界が多様性を認める寛容な社会になることよりも、世界中の人々の平和を願うよりも、まずは自分(たち)の身の安全を願うでしょう。自分の命と引き換えに、世界の平和を願うのは、決して簡単なことではありません。
時代の針を1940年代に戻せば、まさにヒトラーの恐怖政治がドイツを支配し、ヨーロッパじゅうを覆う総力戦が勃発し、ユダヤ人が虐殺されている。そのような人類の危機のなかで、多くのドイツ人は保身に走りました。ひとたび人類の危機に陥れば、皆が保身に走り、世界がエゴイズムに支配されるときが来るかもしれない。世界じゅうで紛争や侵略行為が蔓延っている今、そう思うと、なんだか陰鬱な気分になってきます。
けれど同時に忘れてはならないのは、過去に例を見ない人種差別、残虐な虐殺の中でも、それにあえて抵抗し、ユダヤ人を自宅の屋根裏部屋に匿った人々、収容所からの脱出を助けた人々、ルールを破ってまで、亡命を希望するユダヤ人にビザを発給し続けた人がいたということです。その事実は、多少、いや少なからずの希望を与えてくれます。
人間はときには善人にもなり、ときには悪人にもなる。自らの安全を守るために、隣人の危機をあえて見過ごすときもあるけれど、自分の身の安全を顧みずに誰かの力になれる、そういう勇気を持つこともできる。人間は、善と悪のあいだにあって、揺れ動く存在なのだろうと思います。このことを前提にしたうえでないと、「多様性」「人権」「平和」の問題は議論できないのではないか。私にはそう思えてなりません。
けれども一方で、たとえ簡単に実現できないとしても、「人権」や「平和」を目指すことそれ自体には大きな意義があるのだろうと思います。綺麗事だけでは生きていけないけれど、綺麗事がなくなった世界もまた、決して幸せな世界ではないはずです。力の強い者に歯向かったんだから殴られても仕方ないよね、ではなく、たとえ綺麗事であっても、どんな理由であれ暴力はダメだよね、といえる世界の方に、私は生きていたい。
大切なのは、理想だけを見て綺麗事を語るのでもなく、現実だけを見て絶望するのでもなく、厳しい現実を直視しながら、「それにもかかわらず」理想に向けて努力しつづけることなのだろうと思います。その意味で、ホロコーストの現実を直視することは、現代世界に起こる紛争や対立のことを思い起こしながらも、それでも戦争や人種差別のない世界を諦めずに描き続けるための第一歩になったのだと思います。
NHKスペシャル「新・映像の世紀」では、戦後、連合軍の計らいでドイツ人が解放された強制収容所を訪れ、そのあまりの悲惨さに絶句する光景が描かれています。その様子を、従軍カメラマンのマーガレット・バーク=ホワイトが次のように回想しています。
この言葉の重みを、私たちは深く受け止めるべきなのではないかと思います。
悲劇はなぜ起こってしまったのか?
なぜ誰も止めることができなかったのか?
二度と繰り返さないために、私たちは何をすべきなのか?
その問いに向き合っていくことが、私たちに遺された課題なのではないかと思っています。
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