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何者にもならない生き方

noteやSNS上で何らかのアウトプットをしている人は、何者かになろうと頑張っている人が多いと感じる。

ぼくもその一人だ。

誰かに必要とされたい。
役に立ちたい。
注目されたい。

褒められたい。
好かれたい。

あげるとたくさんあるけど、「自分は○○だ」と一言で表せる何かがほしいとずっと思っている。

今、自分のアウトプットの軸は何かを考えている。
有意義なインプット、意味のあるインプットとは、アウトプットを前提としていると最近教わったからだ。

ぼくの発信の軸とはなんだろう?そう自問自答するも、ぼくだけにしかない、他の人にはない領域の軸なんて何も思いつかなかった。

たかしおとしてエッセイを発信しているのは、これはこれでいいけど、それだけでは勿体ないと思っている。

noteでエッセイという形で200日近く毎日「何か」を投稿し続けているが、優しさ、日常、交流というテーマはエッセイのテーマであって、自分の軸とは少し違うと思う。

エッセイは練り上げた作品というよりも、素の感情をアウトプットしているものが多いからだ。もっと思考を深めた何かを作りたい。

だから最近ずっとそのことばっかり考えている。

「何もない状態」は決して嫌いではない。どうして無理矢理、「ぼくは○○だ」と表現しなければいけないのか?と思う心もある。

ぼくは昔「オタク」がすごく羨ましかった。
一つのこと、コアなこと、なんでもいいけど純粋に没頭できる愛すべきものがある人は、その事柄を語っている時はとても輝いて見える。

どんなジャンルでも、突き詰めた人の話は聞いていて楽しい。
ぼくはそこまで熱中できるものが見つからなかった。

全部中途半端に広く浅く好きで、何か一つを掘り下げるよりも、できるだけ広く多くのこと知って遠くから眺めているのが好き。色んな知識を組み合わせて、自分の頭の中だけで持論を展開し、独特の世界観を作ってひとりで喜んでいる変なやつ。

自分はどうやら「絞る」ということが好きじゃないらしい。

だから、これだけ情報があふれて、やろうと思えばなんでもできるような時代に「何者にもならない生き方」をしてみるのはどうか考えた。

まずメリットは「何者にもならないからこそ何者にもなれる」ことだ。どんな時でも、どんな物事にも常に一定の距離感をたもつことができるからこそ、必要とされる場所があるかもしれない。

問題はこれをどのようにして発信するかだ。

だから「何者のにもならない生き方」のビジョンをとことん考えぬいて、企業のビジョンのように定義づけし、こういう考え方をすることで人は豊かになれる可能性があるというのを、自分で作っていく必要がある。

これだけは違うと思うのは、焦って周りに流されて、それっぽい「個性」を自分にあてはめようとすることだ。いまさらぼくがアニメオタクにはなれない。好きだとはいえ、一般的な好きを超えるわけではないし、アウトプットの軸にするために好きの質を変えることはできないから。

何者にもなれない
特に変わった経験も個性もない
身体的、精神的、社会的なハンディもない

それでも人を惹きつける魅力とは何か?
それだからこそできることは何か?

自分のアウトプットの軸を見つけるためには、見つかるまで考え抜くことがファーストステップ。まずは自分との我慢比べに勝つことから。

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