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Etude (20)「利他を考える」

[執筆日 : 令和3年3月29日]

 昨日は、久しぶりに恵比寿の職場の元同僚から、4月から、観光・ガイドの授業で、西洋の講座を週一回受け持つ仕事が見つかったと、嬉しそうに連絡がありました。しかし、ヨーロッパに住んだこともない彼がヨーロッパの歴史、文化・観光的な事を語ることが果たして出来るか、大丈夫かと思いながら、そういう仕事なら私もできそうなので、特別講義で講師で招待してくださいと、期待せずのお願いをしておりました。また、新潟の友人である高校の先生からは、4月からは非常勤で勤務することになった旨の連絡を受けたのですが、パソコンは非常勤には配布されないようで、学校でもそんな「差別」的なことがあるのかと、釈然としない思いを抱きました。
 コロナ禍で顕在化している日本の問題、あるいは課題は多くありそうですが、問題と課題はご案内のように性質が異なります。問題は、正解の解答があり得ることを前提に、提示されるもので、今答えないといけないものです。時間が切迫しているということですが、他方、課題は、正解という解答は見つかってはいないし、今は問題化していない、つまり、今答えなくとも当面はやり過ごせるもので、言わば宿題です。でも、いつかは必ず自分なりの答えを提出しなければいけないものです。
 国連の提唱している持続的発展のためのプログラムなどは、将来的に問題となる課題を事前に治療を施す、予防効果のあるもので、気候変動という課題を抱えている地球における経済活動全般の見直しを迫られるものでもあります。そういうグローバルな課題も勿論重要なことではありますが、同時並行的に、資本主義社会では、どうして、富者と貧困者の格差が拡大しているのか、貧者層の拡大現象が見られるのか、そして、それを解決する方策はあるのかということも考えないといけないのですが、石川啄木の本を読んだからというわけでもないのですが、世の中には、どうも2種類の人間がいるような気がします。
 それは、世界のことを理解し、解釈し、そこに見られる問題を、或いは、課題に対して、答えを出そうとしている人がいて、他方で、多分、私もその方に属しているかもしれないのですが、世界の理解は理解として、目には見えないものをどこかで信じていて、自分はこういう理想的な世界で生きたいんだと思って生き、そして語っている人がいるように思えます。
 所謂学者というのは、おしなべて、前者に属するでしょう。哲学者もそうでしょうし、政治学者、歴史学者、科学者も。小説家もそうでしょうね。画家では、モネやセザンヌがそうかも知れません。他方、先日以来ご案内のストーリーテラーという物語を語る人というのは、現実に、歴史に、時間に拘束されませんし、そういう意味では、後者に属するのではないかと。ストーリーテラーの描く文学は、どちらかと言えば、童話的な物語で表現されるように思います。童話の世界は、夢物語的ですが、生きる喜び、エラン・ヴィタールを喚起させます。日本人では宮沢賢治がそうではないかと。内村鑑三もそうかもしれません。画家では、ゴッホがそうかもしれません。こういう人たちは、ある種の知命をようなものを感じていて、それを達成るために生きたような気がしてなりません。その知命とは必ずしも本からの知識では得られない、何かではありますが。

 そんなことを考えても何も産まないのではありますが、コロナ禍で、多くの人が自分の苦しみでアップ・アップしながらも、他者への優しい眼差しを投げかけていることも事実であり、今日は、そうした自分と他者との間の関係を「利他」の視線で少し考えてみました。
 「利他とは何か」(集英社新書)は、東京工業大学の「未来の人類研究センター」の「利他プロジェクト」に関わっている人文社会系の研究者と理工系の研究者の5名による執筆からなっている本です。伊藤亜紗さん、中島岳志さん、若松英輔さん、國分功一郎さん、そして磯崎憲一郎さん。若干嫌らしいのは、この5名の方は、全て名のある文学賞等をとっている方々で、それと、若干苦言を呈すると、利他に限定すれば、伊藤さん、中島さん、そして若松さんの文章は、確かに利他を扱っていますが、後の2名の文章、特に、最後の磯崎さんの文章は北杜夫、ガルシア・マルケス、特に小島信夫への礼賛もので、この文章を読んで利他を考えるのは、かなり難易度の高い読書になるのではないかと。また、村上春樹さんの「馬」も引用されておりますが、村上さんの本はまったく読んでおりませんし、コロナ禍を考えるには、これも相当な想像力が求められるかもしれません。ではありますが、社会的に承認されている方々でありますので、そこは敬意を表します。
 利他に特化した文章ということでは、伊藤亜紗さんは「うつわ的利他ーケアの現場から」で、ジャック・アタリの「合理的利他主義」、ピーター・シンガーの「効果的利他主義」などを紹介しつつ、現代社会に遍く見られる「数値化」の弊害も指摘しながら、利他のあるべき姿を語っております。合理的利他主義は、要するに、恵まれない人に温情をかけるのは、寛容であることが自分自身にとっての利益であると理解することから生まれるもので、「情けは人のためならず」で、他者の存在、他者と分かち合うことにも寛容になることで、結果自分が得を得ることを意識した合理的戦略ということです。また、効果的利他主義は、共感という情的なものは不要で、全ては経済効率性を求めての数値化を介してなされる行為となり、寄付をする時には、結果として効率の良いこと(同じ額のお金を使うなら、自国の盲導犬の養成に使うよりも、発展途上国向けのワクチンに使う方が多くの人に裨益するから、そちらに寄付するといった行為)にお金を出すということです。米国での寄付行為の多さと日本の少なさを比較してもしかたありませんが、日本人は、慈善的なことをあまりしたがらないのは、世間の目が気になるからではないかと。世間は嫉妬というか、妬みの目で、慈善者を見ているところがあり、ええカッコシイ行為を疑念をもって見るところがあって、その目を怖がるところがある様な気がしますし、また、ある種の恥ずかしさのようものをあるのかもしれませんが。
 伊藤さんは、よき利他には必ず「自分が変わること」が含まれるものであるとして、相手のためになにかをしているときには、常に相手のために余白を残しておくことが大事で、それが自分が変わる可能性としての余白にもなるとしています。私も同じ気持ちです。素晴らしい。また伊藤さんは、ケアーについて、思想家の鷲田清一さんの言葉を以下のように紹介しています。

「他人へのケアといういとなみは、まさにこのように意味の外で行われるものであるはずだ。ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところで、ケアはなされる。こういうひとだから、あるいはこういう目的や必要があって、という条件つきで世話をしてもらうのではなくて、条件なしに、あなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話、それがケアなのではないだろうか。」
                     鷲田清一「聴く」ことの力」

 他人を手助けするというのは、簡単なことではありません。中島岳志さんは「利他はどこからやってくるのか」で、志賀直哉の「小僧の神様」を題材として登場させています。ご案内のように、これは秤屋で働く丁稚小僧がある時、寿司を食べたくなって、値段も確かめずに、ある寿司屋に入り、食べようと手を伸ばした時に、「一つ6銭だよ」と板前さんからいわれて、4銭しかもっていなかった小僧は手を引っ込めて、店を出るのですが、それを見ていた国会議員のAは、なんだか可愛そうに思い、後日、その小僧に会った時に、別の寿司屋に案内し、お金を板さんに前もって渡しておいて、好きなだけ寿司を食べていいよと言い、本人は店を出るのです。ご馳走してあげたAは、しかし、どうも変に淋しい、いやな気持ちになるんですね。寿司屋の台帳には、偽名まで書いて、議員としての施しではないという体裁まで作って行った行為ですが、贈与という利他的行為をした後で、非常にいやな気持ちに苛まれるようになって、家に帰って奥さんにもそのことを話す訳です(なお、小説の結末はご案内のように、Aは実在せず、小僧にとって神様(お稲荷さん)がしてくれた行為として終わらせようとしたが、辞めたにしたという終わり方です)。
 個人的には、Aは小僧と一緒に食べていればこうしたいやな気持ちにはならなかったと思いますし、幸田露伴の「努力論」にあるように、富は、自分で使う時は惜しんで使い、他人に別けてあげて、後世の人のために資するように植する仕方が利他でも大切だと思いますが。
 昔から、贈与というのは厄介な問題を惹起しております。贈与については、以前ご案内の、マルセル・モースの「贈与論」で精しく述べられております。モースは、贈与は3つの義務によって成立していて、贈り物を人に与える義務、それを受け取る義務、そしてそれに対して返す義務があるとしています。お金をもらって、それに対して何か代償行為的に返納するのは比較的楽なのですが、例えば、芸術作品などを頂くと、モースが取り上げているパプアニューギニアで行われているようなラク交換(色のついた貝殻の交換)のような、くれた人の霊的なものまで受け取るようなことになり、等価交換が成り立たなくなります。つまり、受け取ることで、受けて手の魂が縛られるというか、そんな関係になります。
 贈与というのは、あげる側と、それを受け取る側との間の権力関係を構築するものにもなりますし、人類学者のマーシャル・サリンズは、「石器時代の経済学」で、負債の問題との関連で、互酬性の問題を指摘し、互酬性には、一般的互酬性、均衡互酬性、そして否定的互酬性の3つがあるとして、最初の一般的互酬性が権力を生むものであると結論しています(以上、中島さんの贈与について言わんとしたことの要約です)。 贈与が純粋な利他的行為なのか、それとも互恵的なものなのか、時代によって、或いは、場所によっても違うでしょうし、研究テーマとしては、これからも存続する課題でもありましょう。

 なお、私が、今回中島さんの文章を読んで一番関心を抱いたのは、「わらしべ長者」の箇所と親鸞の慈悲に関して語った箇所でした。「わらしべ長者」はご案内のように、何をやってもうまく行かない若者が長谷観音に死をもって願いをかけたところ、観音様がその願いに応じ、そこから運を掴むサクセスストーリです。中島さんは、このサクセスストーリにおいて重要なのは、「自分が何かを行ったら、何かがかえって来るという前提で行った行為ではなくて、あくまでも結果として何かがかえってくる」ようになる「オートマティカル」な力であるとして、親鸞の考え、仏教を基に利他を説明しております。中島さんの説明によれば、親鸞は、善い行いをするには、(1)聖者の行いである「聖道の慈悲」、そして、(2)浄土からの「浄土の慈悲」があるとし、前者は自力、後者を他力としています。親鸞は、聖道の利他的行為というのは、時に見返りを求める自利の心に変容することがあるとして、聖道の慈悲を超える「浄土の慈悲」である、見返りを求めない一方的慈悲の仏の心、利他心でないといけないと説く訳です。
 確かに、親鸞は寄付行為を奨励しておりませんし、私が寄付行為をしないのは、そういうことも多少はありますが、要は単に懐が寂しいからであります。
 また仏教は、人間には、五蘊という、色(肉体)、受(感覚)、想(想像)、行(心の作用)、識(意識)があって、この5つが結合したのが「私」になると考えます。そして、誰かと話をすることによって影響を受けると、私の五蘊の結合体である自分が変化する、つまり、昨日の私と今日の私は違う人間になっているという、人は成長する存在であるという思想を持つものでもあります。親鸞は現世というのは、このように二重の業(自分と仏)の力学(オートマティカルな)によって成り立つ世界であると考える人ですが、利他の行為も、他力本願も、こうした自分と仏の間で生まれるオートマティカルな力によって達成されるものであるとも言えるというのが、中島さんの見方であります。
 親鸞の考えることが正しいか、正しくないかの議論も重要でしょうが、確かに、過去の自分の経験した事から類推すると、邪念というか、すけべ根性を持って何かをした時は上手く行ったことがありません(ゴルフもしかり)。コロナ禍においてに限らず、利他を示す時は、この大きな力、中島さん的に言えば、オートマティカルなものを信じて行うのがよろしいのではないかと思います。ちなみに、私の徒然を読んで、読む前と読んだ後では人が変わったということを私が期待して書くことは勿論ないのですが、仮に、日々の生活のなんというか、空気感のようなものが変わるようなことがあれば、まさに望外の喜びになるのでしょう(しかし、書くこと自体、期待していることになるのでしょうね(苦笑))。
 今日は、こんなところで失礼します。

(なお、若松英輔さんの「美と奉仕と利他」(柳宗悦に関するもの)は、またいつかご案内しますが、國分功一郎さんの「中動態から考える利他ー責任と帰責性」は、ご自分の研究発表文のような印象を受けました。内容としては、言語学、あるいは思想は外から来るの代名詞的な諸外国の学者の言葉の引用が満載で、日本人の行動とどのように結びつくのか、?がついた文章です。興味深い研究ではありますが、これによって、日本人の行動を変えることが出来るのか疑問です。)(了)

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