Etude (15)「処世術は理性的で、合理的なものなのだろうか」
[執筆日 : 令和3年3月23日]
世の中捨てる神もいれば、拾ってくれる神もいるというか、やはり友達は有り難いものです。齢を取るというのは、友達がいても、なかなかそう簡単には会えなくなるということでもありましょう。昨日から吉村昭の「遠い日の戦争」を読んでいますが、敗戦間近の頃、日本軍が捕虜として捕らえていた米軍パイロット等(40名前後)を斬首して殺害したことがありましたが、その事件に係る話です。言わば、日本軍の恥部、タブーの歴史ですが、武士道精神に則った戦争であったとはとても言えない戦争をした日本人の末裔が私達であります。これはこれで辛い話です。
昨日、理性的とか合理的という話をしましたら、以前ご案内した思想家の立花稀一先生から、先生のブログ(https://www.kiichiposition.com/essays) に秋田大学教育文化学部定年退職記念講演会発表原稿「人間は合理的動物である」があるので、参考にしてくださいと案内がありました。立花先生の趣旨は「合理性ということは、ペンは剣よりも強し、にあると私は思いたい」ということのようですが、哲学における理性や合理性について、得るものが多いと思いますので、御覧になってみてください。
大学での学問としての哲学は、一つの構造物というか、統一された論理がないといけませんが、私の生きている普段の生活では、この合理的と理性的とはあまり明確な概念ではないように思います。その根本の問題は、英語のreason,logic仏語のraison,logiqueという、外国語、西洋の言葉の理解と和訳に問題があります。こうした言葉は日本語にはなかったと推察されますので、言葉の含意をどう日本語にするかでひと悶着あったでしょうし、中身についてはもっとあったでしょう。置き換えだけで対応できる言葉もあるでしょうが、外国の概念を日本人が分かるような漢字に変換するのは大変です。少し、言葉を整理してみました。
日本の辞書では、理性は「論理的、概念的に思考する能力、善悪、真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力」、合理は、「道理にかなっている、論理的に正当であること」となっています。なお、理性については、カントは、先天的な能力としていて、ヘーゲルは弁証論的な能力としていますが、まあ、よく分かりません。私が気がついたのは、理性というのは、相手を説得する能力、或いは、上手に生きるための能力だということ。合理というのは、合理的と形容詞的に使う場合が殆どですが、2つの例で考えてみたいと思います。
第一は、自宅から職場に通勤する場合のルートの選択についてです。物理学者の寺田寅彦が、「最短ルートは必ずしも最善のルートではない」と述べております。この場合、最短ルートが多分、合理的なルートなんでしょう。そしてそうではない、寄り道的ルートが最善のルート、つまりは理性的なルートになるということでしょう。そこで、杢兵衛は考えたのです。合理性というのは、到達する地点までのかかる時間もそうですが、移動に要したコストが一番安価であるということで、コストはエネルギーと置き換えても可能でしょう。しかし、そうとも言い切れないところに、合理的という問題があります。
歩いて行くか、自転車で行くか、車にするか、それとも電車にするか、色々な選択肢があります。しかし、合理的というのは、人によって違うとアプリオリに思います。お金持ちは、車で行くでしょう、タクシーか運転手付きの車で。お金もなく、職場から通勤手当が出ない人は、自転車か、歩きでしょう。通勤手当が出る人は、どの路線を使うかという選択肢はありますが、その場合、混まない電車の路線を選ぶこともありえます。そういう意味では、始点から終点が直線のように、何も障害物がない状態でいう最短ルートは仮想的なもので、現実的ではないのです。実際の合理的というのは、状況によって異なるものだということです。一般的に言えるのは、様々な意味合いを含んでのコストの問題になるでしょう。言い方を変えると、「技術」の問題になるのではないでしょうか。どのような技術を使うかが合理性の問題のように、日常的には思います。ですから、技術革新=合理性を高める、となるのでしょう。
合理性は、知の世界(真理)を広げるものですが、倫理性、善悪、審美観、価値観とは無縁とも言えます。理性は、最終的には、自分の行動を正当化し、対峙する他者を説得する力を持っているものとも言えます。寺田が何故、最短ルートではなくて、寄り道的な周り道を重視するかはご案内のように、最短ルートを駆け足で疾走する者が、道の途次で見過ごしがちな様々な世界を知ることが出来るからであります。寺田が言うのは、まさに人間の智慧ともいうもので、理性というのは、善く生きるために備わっている智慧であると思います。
第二の問いは、今は私はその答えは見つかりません。それは、人が法律や、規則に従うことが理性的であるかどうかということです。莫迦な問いかもしれませんが、先日、吉村昭の「敵討」「最後の仇討ち」を読んで、不倶戴天の敵である場合、仇討ちが武士には認められていた時代があって、明治にその敵討ちが法的には認められなくなった歴史が日本にはある訳です。西洋並みに、所謂法治国家になるための踏み絵とも言えますが、今日、悲惨な事件が起こると、遺族は法に縛られ、仇討ちは出来ません。が、仇討ちが認められない法律というのは、果たして理性的な法律なのかと思うのです。合理的ではあるかもしれないけれども、理性とは距離をおいて生まれたものではないかと思うのです。同性婚を認めていない法律も含めてですが。まあ、これは私の宿題ではありますが、「敵討」「最後の仇討ち」は総て歴史的事実に基づいた小説です。仇討ちに10年以上をかけて成し遂げた人の実話です。令和の時代で、そうした仇討ちができない人の怨念のようなものが何処に潜んでいるのかと、私は杞憂するのです。
ここからは、理性的であるとか、合理的であるという話よりは、人生の楽しみの味わいから、あるいは、為政者の処世術といった話になりますが、小説は、物語ですから、初めから、時系列的に読まないといけない訳です。結末を最初に読んでしまっては、面白みは半減しますが、中国の唐の時代の書かれた帝王学の魁的な本呉兢著・守屋洋訳「貞観政要」は、歴史的な位置付け、本の特異点(ポイントがどこにあるのか)を把握しないと、字面を眺めただけの読書になります。読みながら、過去の読書経験を頼りに、他の本との違いを意識しながら読まないと、その本の味が分かりません。知識というか、読書経験が大きく左右する本だと思います。小説を味わうには、先に読んだ文章を記憶(短期記憶)していないと、読み続けられませんが、長期記憶を求められるのが「貞観政要」になるでしょう。
私的には、この本は、最後から読のが一番ではないかと思います。最後というのは、「終わりを克(よ)くするの美を保たん」の章ですが、つまり、有終の美を飾るにはどうすればいいかを説いた箇所です。人生という長いマラソンのもうすぐゴール間近の人に、スタートの話をしても読んではくれませんので、あの世に行く前に、どうしたら有終の美を飾ることが出来るのか、晩節を汚すことのない生き方ができるかを皆さんは知りたい訳ですから、その事を先ずは話さないといけないでしょう。
太宗である李世民は、後々(後継者)のことも含めて、どのようなことに気をつけたらいいのかを側近の第一人者である、魏徴に尋ねる訳です。魏徴は、「嗜好、喜怒の感情は、賢者も愚者も同じ様に持っております。しかし、賢者はそれをうまく押さえて、過度に発散させることはしません。ところが愚者はそれを押さえることができず、結局は身の破滅を招くことになるのです。いっそう自戒につとめられて、有終の美を飾らんことを願いあげます」と述べております。
要するに、身の破滅をもたらす原因は、自我をコントロールできないことから来るものであるということを諭しているのですが、昨今、日本で見られた政治の立役者、オリンピックの立役者が立て続けに、晩節を汚すかのようにして、姿を消しているのですが、病気も不可抗力のような面はあるでしょうが、多くの失敗の原因はその人が自我を押さえることが出来なかったからではないかと思います。人間は合理的どころか、感情に支配される生き物ではないかと思うこともありますが、このように嗜好や感情と如何にして付き合っていくかが大事な点になると思います。
訳者の守屋洋さんは「文庫本のあとがき」で、知人で長い間企業弁護士を務めた人の語った言葉を披露しておりますが、その言葉は、日本の政界、或いは経済界で、この人は立派な人だと謂われる人に、つまりは晩節を汚すことなく、有終の美を飾ったような人に共通する言葉ではないかと思います。それは「無私」ということです。経団連会長であった土光さんは、その典型でありましょう。政治家は、「無私」というのはなかなか難しいでしょうが、日本の政治を学んだ人なら、そういう人を挙げる事ができるのではないかと思います。日本の近代経済の立役者、渋沢栄一は、そうした無私の人に限りなく近い人ではなかったかとも思います。
100%の無私は無理でも、無私の部分の多い人が晩節を汚すことが少ないのではないかと思います。無私は私欲がないということですが、無欲とは違います。欲を公的なものへ向けることが出来る人が無私の人でありましょう。
芸術家は孤独な存在でありますが、トップの座にいる者も、孤独でしょう(なったことがないので実感はありませんが)。トップに居る人は高い処に居るだけ、転げた場合、悲劇的であり、喜劇的でありますが、高い椅子から転げ落ちないために、何が必要かと言えば、それは、仕事以外で好きなことを適度に自制すること、そして、過去の歴史の中での反面教師を見つけて、失敗しないようにすることであると言います。
国那律という、側近者の一人が太宗を諌めたようです。太宗の唯一の趣味というか、気晴らしは、狩りであったようで、ある雨の降る日に狩りに出た太宗は、着衣が濡れるので、濡れないようにするにはどうしたらいいかと尋ねたところ、瓦で作った着衣なら大丈夫でしょうと、暗に狩りに出ないのが一番であると諌めたようです。弓が得意な太宗にとっては、狩りが唯一の娯楽で、平時にはそれほど悪いことではないことでしょうが、魏徴は、「国家の為、民百姓のため、個人的な楽しみごとを慎んでください」と述べております。
守屋さんは、狩りは今日的に言えばゴルフであり、政界のトップのゴルフ通いを批判しており、会社で社長がシングルの会社は要注意であるとまで述べております。シングルというのは、そのレベルを維持するには、週二回のラウンドが必要であり、仕事をなおざりにしているから出来るのだと。まあ、耳が痛い人、いるかもしれませんが、トップというのはそれくらいに辛いポストであるということです。米国と日本ではゴルフ文化が違いますから、一概には言えませんが、趣味への情熱が本職の仕事への情熱を超える程のものになると、それはやはりトップに座り続けるのは、弊害は多いでしょう。趣味の世界に生きた方が本人にも、また組織にとっても望ましいでしょう(細川首相はそういう人だったように思います)。
そして大事なのは、歴史の中で「反面教師」を見出し、失敗を繰り返さないようにすることですが、これがまたなかなか出来ないようです。というのも、人間は、失敗した人の話よりも成功した人の話が好きなんですね。例のプロスペクト理論ですな。前に、養老孟司さんの脳は意識的に自然を回避する話をしましたが、この場合、自然は成功の反対の失敗を意味します。人はともかく、成功することを期待し、成功をベースに予定に組み込むことで安心する訳です。つまり、凡人なる指導者は、過去を顧みないという事にもなりますが、優れた指導者は、自らの行動の鏡として、過去を現在に活かす人ですが、そういう政治家、本当に少ない気がします。コロナ禍、政府の対応を見ていると、総て成功しているような説明ですよね。なんなんでしょう、反省が全く感じられません。一度、某首相に尋ねてはどうでしょうか、過去の日本人で、誰を反面教師としておりますか、と。多分、答えられないでしょう、分かりませんが。
それから、人の失敗には、自分が得意だとすることから、過信ともいえることから生じるとも言われます。
結論として何を私は言いたいのか。理性的であること、合理的であるためにも、過去を学ぶ、歴史を学ぶことが大切である、という平凡な事であります。で、私の徒然は如何様に読むかですか?最初と終わりです。(了)