倉敷とんかつ探訪記
その町を初めて訪れたのは、確か21、22歳の頃だった。
「ひとり旅」という言葉に対してどうしようもなく憧れを抱いていたぼくは、とりあえず行き先は西へ、とだけ決め、自宅のある兵庫県を出発し、電車の座席から伝わる心地よい揺れにただ身を任せ、岡山県倉敷市へたどりついたのだった。
倉敷の美観地区
倉敷といえば白壁の町、やはり美観地区が有名で、若かったぼくももちろん歩いた。
が、その時のことはほとんど何も覚えていない。
江戸時代から残る白壁の蔵屋敷や町屋の景観も、当時のぼくには響かなかったらしい。まぁ、もう少し大人になれば分かるだろう、と。
あれから20年近い月日が流れ――と書きながら、当の本人が驚きを隠せないのだけれど――年を重ねたぼくは、ようやく倉敷の歴史に彩られた町並みが、心にすっと染み入るのを感じられるようになった――はずだった。
倉敷川の流れはあくまで穏やかで、静かで風情があり、しかし人々で活気づく町はたしかに良いのだけれど、心の奥底で、ひねくれた、もうひとりのぼくがささやくのである。
「まぁ、観光地のひとつだな」
その土地の歴史とか情緒とか、そういったことを感じるのももちろん旅の醍醐味なのだが、ぼくとしては、倉敷山陽堂の屋根のニッパー犬がもうじき101匹になるらしいことや、倉敷えびす通商店街に軒を連ねる庶民の味に、俄然、心を動かされるのだった。
どこで道を誤ったのか、どうやらぼくは、大人の休日旅の似合う”上質な大人”にはなりそこねたらしい。実際、こうして倉敷川沿いを歩いていても、昼食のことばかりが頭をよぎる。
腹が、減った――。
よし、飯を探そう。
ということで、「とんかつ かっぱ」を訪れた。創業45年、老舗のとんかつ屋さんである。
デミソースでいただく「とんかつ かっぱ」
かっぱに到着すると、すでに行列用のイスがいくつも並べられていた。
かっぱには、系列店「喫茶 Kappa」が併設されているが、現在は休業中のもよう。しかし<ハヤシライスのおいしいお店>という看板や、ショーケースに並ぶパフェや軽食のレトロな食品サンプルに目を奪われた。順番待ちの表を見ると、すでに10組以上の行列ができている。
イスに座って、30分ほど待っただろうか。
「喫茶 Kappaの席ならご用意できます」
休業中だが、席は利用できるらしい。
入店すると、そこは昭和のまんま時間が止まっているかのような空間だった。
こういうのを純喫茶というのだろう。4名テーブルが3つ、カウンター席が6つ。重厚な木のカウンターの奥には、大きな水出しコーヒー器が2台、静かにたたずんでいた。メニューをじっくりと読み解き、名代とんてい¥1,600とクリームコロッケ¥500を注文し、支払いを先に済ませる。
ほどなくして運ばれてきたとんていを前に、思わず顔がニンマリしてしまうのを、ぼくはおさえることができなかった。
洋皿に盛られたライス、フレンチドレッシングのかかったキャベツの千切り、マッシュポテト、マカロニ、そして味噌汁。
メインのとんかつの、その厚みは3cmに迫ろうかというほどだった。たっぷりのデミグラスソースがかけられている。そう、和のとんかつ定食ではなく、洋食屋のとんかつ定食だ。
さっそくとんかつをほおばる。
豚の脂身だった。
揚げたての衣がサクッとつぶれ、豚の脂の、そのうま味が口のなかにじわりと広がる。
柔らかい。
口じゅうに広がるソースと豚のハーモニー。
まるで、ぼくの頭上で天使が歓喜の歌声を上げているかのようだった。
クリームコロッケはいかに。
エビだろうか、カニだろうか。
天使の歌声に包まれているぼくには、もはや判断がつかない。
エビのような気もするし、カニのような気もする。
が、幸せなぼくの舌の前では、そんなことはどちらでもよかった。
そして決め手は、デミグラスソースだ。
とんかつソースも大好きだけれど、このデミグラスソースはぼくが今まで食べた中で1、2を争うものだった。
もし自宅の蛇口からこのソースが出てきたら、ぼくはそれを水筒に入れて、どこへでも持ち歩くことだろう。そして風呂にためてソースにダイブして、もしそのままおぼれてしまってもそれは本望というものだ。
惜しむらくは、ひと口めに豚の脂身を食べてしまったこと。
ぼくは好物を最後にとっておくタイプだ。
一番おいしい、そして大好きな脂身をはじめに食べてしまうなんて。
見た目では、それが脂身だとぼくは見抜けなかったのだ。
まだまだ修行が足りないようである。
阿智神社でダークチョコを食べてみると
腹ごなしに、美観地区にある阿智神社の境内を散策した。ウグイスの谷渡りが響き渡る。真夏のように暑い1日だったが、木陰はとても涼しかった。
阿智神社は鶴形山の山頂にある。しかし山頂というより、小高い丘の上、というのがぴったりだ。本殿のそばには絵馬殿があり、中にはちょっとした休憩スペースがある。見晴らしがとても素晴らしく、この場所が好きで何度か訪れている。
ここでお茶でも飲みながら、商店街の「マルシェ ナチュール」で仕入れた、ダークチョコ100%を食べてみよう。
高カカオチョコレートは人生初めてだ。
嗚呼、苦い。
なんという苦さ。
甘さゼロ。
インスタントコーヒーの塊を、そのままかじっているかのようではないか。
改めて述べる必要もないが、マルシェナチュールも、ダークチョコ100%も、まったく悪くない。「コーヒーはブラックでしょ」ぐらいの感覚で、知らずに選んだぼくが悪いのだ。ぼくが無知だった。
阿智神社におわしますあらゆる神々にぼくは願う。
「ドウカ コノ チョコレートヲ アマク シテクダサイ。ドウカ ドウカ オネガイシマス」
見向きもされなかった。
お賽銭をうんとはずめば、あるいは……。
そんなぼくのことはおかまいなしに、あいかわらず境内には、ウグイスの美しい谷渡りが木霊してる。
丘を吹き抜ける心地よい風が、ほおをさわやかに撫でてゆく。
なんだかんだ言って、ぼくはこの町が大好きなのだ。