京都一周トレイル®をゆく #3|拝啓、歩く旅を愛する全ての人へ
今、京都一周トレイル®を歩いています。
まだ6月の梅雨時だというのに、いったいこの暑さはどうしたことでしょう。気温30度を超える中、樹林帯のトレイルは暑さと湿気でまるで蒸し風呂のような環境です。
叡山電車二ノ瀬駅を出発し、夜泣峠を経て最初の山、向山へ到着しました。すでに速乾ウエアの機能が追いつかないほどの汗をかいています。ここが本当のサウナなら大汗をかいても冷たいシャワーやビールの楽しみがあるのですが、そんなものがあるはずもありません。まったく、この先の旅程が思いやられます。
しかしそこへ、一陣の風がそっと頬を撫でてゆきました。
シャツの袖口から風が吹き抜け、火照った体を冷ましてくれます。
二羽のトビがぼくの上空を旋回し、風を受けて実に気持ちよさそうに滑空していました。
あぁ、涼しい——。
五感に爽やかな風を感じるだけで、人はこんなにも幸せになれるのです。そのことを、ぼくたちは忘れてしまっている。忘れてしまうほど、何をそんなに生き急いでいるのでしょう。
人生というものはなかなか思い通りにゆかないものですが、実は小さな幸せに溢れていることを、自然の恵みから改めて感じるのでした。
2022年5月に、友人のY内青年とふたりで、約40kmのトレイルをつないできました。テントを背負い、伏見稲荷から大文字山、比叡山、大原、鞍馬を越えて、二ノ瀬へと歩きました。比叡山は山岳修行の道だけあり、険しい道のりが続きます。大原の里へ下りたときの安堵感といったらありません。それに大原の、田畑と青空に彩られた美しい景観に心を打たれたものでした。
今回はその続き、二ノ瀬から氷室、高雄、嵐山へと歩きます。これで伏見稲荷から嵐山へと至る、京都一周トレイル®の旅を完結させるつもりです。
もっとも、本当は伏見稲荷より手前の伏見・深草ルートと、嵐山から先に、松尾山から苔寺へと至るコースがあります。
が、その両端はカットすることにしました。個人的には見所に欠くからです。
そうして京都一周トレイル®のおいしいところだけを歩く、全長約65kmのトレイルの計画ができあがりました。6月のうだるような暑さの中、前回のゴール二ノ瀬駅に、Y内青年と再びテントを背負って降り立ったのでした。
向山を下ると洛北発電所があり、その先には草原のような場所が広がっていました。獣害よけの柵が備えられていますから以前は畑だったのでしょう。今は背の低い草木が生い茂っています。草原の一角には養蜂場があり、巣箱がたくさん並んでいます。その上をミツバチが忙しそうに飛びかっていました。
盗人谷から小峠は我慢の道のりです。
沢沿いを峠まで一気に登ってゆくのです。せせらぎが涼しげに思えますが、シダが繁茂しコケが茂り、湿気のおかげでさながら熱帯雨林をゆくようです。トレイル案内図の前で休憩していると、Y内青年がヤマビルにやられました(そして帰宅後、マダニにも寄生されていたことが発覚したのでした)。
ところで、京都の名産品といえば何を思い浮かべますか。
お茶に漬物、野菜、湯豆腐、それに数々の工芸品など多くの品々が思い浮かびますね。実はその名産品の中に、木材があるのです。
京都北山杉。
今から約600年前、室町時代に京都市北区中川で始まったと言われる杉の植林が現在まで受け継がれ、美しく製材された磨丸太は、京都府の伝統工芸品として愛されています。
小峠には手入れの行き届いた北山杉の植林が広がっていました。
丹念に枝打ちされた真っ直ぐな杉がいくつも育っています。ほどよく間伐された森は太陽の光が明るく差し込み、林道沿いに、それは目に鮮やかな植林が広がっているのでした。
その美しさに見とれながらトレイルをゆくと、やがて氷室町に到着します。その名のとおり宮中に献上するための氷が生産された場所で、氷池、氷室、神社の遺構を見学できます。トレイル沿いにはポツポツと民家があり、田植えを終えた田んぼの奥には、ここにも北山杉の森がありました。ウグイスの谷渡りが木霊する田園風景の中を、ゆっくりと味わうように歩きました。
ここで少し寄り道をしましょう。
12時半を回って、お腹が鳴り始めました。
氷室町から城山を越えて、レストランに立ち寄ります。
「こんな山奥にレストランが?」と思われるかもしれませんね。氷室口からトレイルを少し迂回したところに、「山の家はせがわ」はあります。それは手作りのログハウスの洋食屋さん。知る人ぞ知る、山の隠れ家的レストランです。
午後1時ごろに入店すると、満席でしばらく待つことになりました。テラス席、室内席とも木のぬくもりを感じる造りで、とても開放的で気持ちのよい風が吹き抜けています。扇風機はありますが、エアコンはありません。でもとても涼しいのです。
ほどなくして席に案内され、ぼくはチーズハンバーグセット(¥1,300)とノンアルコールビール(¥200)を注文しました。本物を飲むと、この先歩けませんからね。もちろんライスは大盛りです。ポタージュスープとサラダ、目玉焼き、それに大きなハンバーグの上にはとろけたチーズが乗せられて、ソースと絡み合っていました。こうして思い出すだけでもよだれが出そうです。
それと、キリリと冷えたグラス一杯の水。
炎天下の中、ここまで歩いてきた体に水が染み渡るのを感じました。ハンバーグは当然です。でも、水がこんなに美味しいなんて——。
人が生きるためにもっとも必要なものは水なのです。だから文明は大河の流域に起こった。文明などと大それたことではなくとも、例えば歩く旅を計画するにあたり、水をどうやって補給するかというのは大きな問題です。
今回のコースでは、二ノ瀬から高雄までの約15kmの道のりの間、水を補給できる場所はありません。それにこの暑さです。行動中の水分補給に加え、テント生活に必要な水も調達、あるいは2日分の水を全て担ぐかしなければなりません。たった1泊の山旅でさえ、水がなければ成立しないのです。
日本は水に恵まれた国です。
蛇口をひねれば水を得られます。
湯水の如くという言葉があるように、水は無尽蔵に手に入ると考えがちです。
でも、そうではないのですね。
水、とりわけ飲める水は貴重なのです。
山旅を続けていると、水のありがたさが骨身に染みます。
ぼくたちが食事を終えるころ、隣の席のご夫婦も会計のために席を立ちました。山の家はせがわは、ペット連れOKのお店です。ご夫婦は、見るからに賢そうな大きなゴールデンレトリバーを連れていらっしゃいました。2〜3歳ぐらいの子供なら、背中に乗れるのではないでしょうか。食事中も吠えたり動き回ったりせず、ご主人のもとでおとなしく座っていました。でも厨房の様子が気になるのでしょう。しっぽを振りながら、なにやら楽しげに中をのぞいていました。
会計を終えたご主人が、リードを引いて帰ろうとします。
が、そのワンちゃんは、ご主人と綱引きでも始めるかのように足を思い切り踏ん張って、頑としてこの場所を離れようとしません。よほどここが気に入ったのでしょう、「い・や・だ」の3文字が背中に刻まれているようでした。その後ろ姿がとても可愛くて、店内の注目を集めます。
ご主人も
「まいったな、みんなに笑われているじゃないか」
と愛犬を諭しながらも、伸びた鼻の下が今にも床に届きそうです。
そんな光景がとてもおかしくて、店員も客も幸せな空気に包まれました。そうして心も体も満たされたぼくらは、再び京都一周トレイル®の旅を再開したのでした。
旅のデータ
距離:約25.4km
コースタイム:約11時間
コース:二ノ瀬→夜泣峠→向山→洛北発電所→盗人谷→小峠→氷室→山の家はせがわ→上ノ水峠→沢ノ池→神護寺→清滝→金鈴橋→落合橋→六丁峠→蘇我鳥居本→嵐山公園→阪急嵐山駅
アクセス:行き・叡山電車「二ノ瀬」駅|帰り・阪急電車「嵐山」駅
山の家はせがわ
住所:京都市北区鷹峯船水3
電話:075-494-5150
平日11:00〜16:30(ラストオーダー16:00)|土日祝・GW期間・お盆期間10:30〜16:00(ラストオーダー15:30)
定休日:火曜日(火曜日が祝日の場合は、翌日の水曜日が休み)