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滋賀の山。比良山系・蓬莱山、展望の稜線をゆく#2
びわ湖バレーでのにぎわいが嘘のようだった。人の気配はすっかり消え去り、またひとりきりの旅が始まった。スキー場の斜面を北へ下り、キャンプ場の跡地から木戸峠へ。峠のお地蔵様に手を合わせて、比良岳、鳥谷山へと進んでゆく。
鳥谷山から南を望むと、打見山や蓬莱山がよく見える。あぁ、あんなに遠くからはるばる歩いてきたのだと、山歩きの愛好家なら誰しも経験するであろう思いを胸に、しばし眺めを楽しんだ。そして再び歩きだす。
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15時をまわり、疲労がじわりとぼくに襲いかかる。ひたすら樹林帯の登山道をゆくも、視界が徐々に狭まってゆくのをぼくは感じていた。疲れてくるとどうしてもうつむきがちになり、これはよろしくない兆候である。
しかし時刻はすでに16時を過ぎた。
いくら日の長い6月とはいえ、焦りがぼくに浸透しつつある。地形図を手にしながらもろくに確認せず、ただただ踏み跡をたどってゆく。
そして、道が消えた。
そんなはずはない——と、あたりを見回すも、踏み跡がぱったりと途絶えてしまったのである。
ザックを下ろす。
周囲は灌木に覆われて先が見通せない。
深く息を吸い込む。
ゆっくりと吐く。
地形図を改めて確認する。
と、おおよその現在地を把握できた。
本来は登山道の脇にある小ピークを巻かなければならないのに、ぼくがいるのはそのピークの真上だった。途中で道をあやまったのだ。
すぐに来た道を引き返す。鳥谷山の先にある鞍部で、現在地を確信した。鞍部から小ピークを巻くところを、直進してしまったのだ。
日はまだ高い、急ぐのはよそう。
幕営予定地まで再度コースタイムを確認する。これなら明るいうちに着けそうだ。何より、自分で立てた計画通りのタイムでここまで歩けているではないか。
心のペースを落とし、またのんびりと歩き始めた。
荒川峠を越え、南比良峠はもうすぐだった。
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いつまでもこの景色を眺めていたい——。
山を歩いていると、心からそう思える風景に出合えることがある。
たとえばここ、南比良峠は、ぼくのここ数年の山歩きの中で、一番強く心を揺さぶられた場所かもしれない。
樹林で視界が遮られ、絶景が広がるわけではない。荘厳な滝があるわけでもないし、まして名所旧跡や景勝地でもない。ただ、池、というには小さい大きな水たまりのような湿原があって、あたりはブナに囲まれている。足下にはシダ類が青々と繁茂し、風がそっと、やさしく吹いていた。草木のゆれる音だけがそこにある。よく晴れた6月の夕暮れの光が、甘く、あたり一面を照らしていた。
倒木に腰かけたぼくは、何をするわけでもなく、ただただ目の前に広がるその美しい光景に見とれていた。まるで絵画を鑑賞しているような心持ちで——。すると、そこにある全ての自然が偶然ではなく必然であり、それぞれに神が宿っているのではないか、とさえ思えてくる。
たしか「絵になる」とはこういう場面を表す言葉ではなかったか。
なんならここに幕営してもいい、と考えがよぎったが、あたりに飲めるような水場はないし、平らな場所は少ないしと、一夜を過ごすのに適した場所ではなかった。
もう二度と同じ光景には出合えないかもしれないけれど、やはり、先に進まなければならない。ぼくはデジタルカメラの撮像素子に映像を焼き付け、心のフィルムに光を焼き付けた。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、先に進む。
一期一会——。
桜は散るから美しいのだと、自分に言い聞かせて。
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金糞峠を訪れるのは何度目だろうか。この峠の北にある沢がとても美しく静かで、ぼくのお気に入りの幕営地のひとつなのである。
なにより水が美味い。
理由はわからないが、口に含むと(もちろん煮沸消毒してから)とてもまろやかで、ほんのりと甘さを感じる。6月の沢の水はまだキリリと冷たくて、このままミネラルウォーターとして販売してもおかしくないと、個人的には思っている。
沢のすぐそばに大木が一本そびえていて、その下にテントを張った。地面にシートを広げ、ブーツから解放した足を伸ばす。バックパックからスキットルを取り出し、バーボンをひと口。ナッツもつまむ。持参した缶詰をバーナーで温めながら、ラジオから流れる音楽にぼんやりと耳を傾けた。
ここには、ぼくひとりしかいない。
やがてあかね色の夕日もすっかり沈み、曇の合間から時々、月明かりがテントを照らした。中で横になりながら、時々差し込む月の光に曇の動きを感じていた。ラジオをOFFにした後は、覚えていない。
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本当は武奈ヶ岳のピークも踏んで帰る予定だった。が、翌朝、起きた時間がまずかった。
午前7時。
はて、たしか4時にアラームをセットしたはずではなかったか。
今日は月曜日、いくらフリーランスといえども帰宅したら仕事がある。予定を変更して、下山することにした。気ままに歩けるのもひとり旅のよいところである。
金糞峠からシャクナゲ尾根をゆき、北比良峠へ。そこからダケ道を大山口へと下山した。
大山口に流れる沢で手拭いを洗い、ついでにウエアを着替えて体も拭く。イン谷口から比良駅へと向かう途中、振り返ると、比良の山々がどっしりとその山容をたたえている。
青空を、一羽のツバメが舞っていた。
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旅のデータ
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標高:1173.9m(蓬莱山)
距離:17.8km
コースタイム:10時間14分
コース:下坂下バス停→サカ谷道→小ピーク→小女郎ヶ池→小女郎峠→蓬莱山→打見山→木戸峠→比良岳→鳥谷山→荒川峠→南比良峠→金糞峠(1泊)→北比良峠→カモシカ台→大山口→イン谷口→比良駅
アクセス:行き・JR湖西線「堅田」駅より江若バス⇒「下坂下」下車|帰り・イン谷口からJR湖西線「比良駅」へ(土日のみ比良駅ーイン谷口若江バス有り。冬期運休)
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