芭蕉が愛した山中温泉|鶴仙渓の自然と川床を味わう 

 橋桁から、カマキリが川に落ちた。

 とたんに川魚が我先にとカマキリに群がってきた。獲物を、待ち構えていたのだ。

 カマキリはもがいて逃れようとするが、抵抗むなしくやがて川底へと飲み込まれてしまった。ここでは、自然界の当たり前の営みが繰り返されていた。

 ある年の夏、青春18きっぷを利用して、石川県加賀市・山中温泉を訪れた。温泉郷のすぐそばには、情緒ある街並みと、心を洗う自然がある。温泉街に沿うように流れる大聖寺川の渓谷は「鶴仙渓かくせんけい」と呼ばれ、それはそれは心の休まる静かな空間が広がっているのだ。かの松尾芭蕉も、奥の細道紀行で8泊9日間滞在した。

 連日のことながら、もう夏に終わりはこないんじゃないかと思えるほどの、暑い一日だった。それが鶴仙渓に入った途端、ぐっと気温が下がったような気がした。木陰に囲まれた遊歩道にはそよ風が吹き、せせらぎと野鳥のさえずりが響きわたっている。

 実際に、舗装路より気温が低かったのかもしれない。が、自然の情景が涼を感じさせたに違いない。石畳の遊歩道には苔が生え、道端のシダ類がみずみずしい。河原ではカワガラスが水浴びをしながら、上流へ向かって歩いていた。

 鶴仙渓にはいくつかの橋がある。石造りの黒谷橋、赤くモダンなあやとり橋、総ひのき造りのこおろぎ橋。それぞれに趣があり、橋を巡ってみるのも楽しい。その橋の上からカマキリが落ちて、川魚の糧となったのである。

 幼少期から自然に親しんできたが、このような瞬間を目撃したのは初めてだった。

 しかし自然界では日常のこと。

 渓にはただ、自然の理が存在するのみ。

 上流から下流へ、とどまることなく流れてゆく。

 鶴仙渓を訪れたなら、ぜひ楽しみたいのが川床だ。

 鶴仙渓のちょうど真ん中、あやとり橋の近くにあるそれは、テーブル席とお座敷席がいくつかあり、赤い和傘がしつらえられた、こじんまりとした川床だ。お座敷席は川にすぐ手が届くぐらい低い場所にある。そこからの眺めは、川に浸っているかのような錯覚を起こさせた。

 さっそくお茶を注文する。

 キリリと冷えた、加賀棒茶だ。

 加賀棒茶は、お茶の茎の部分を浅く均一に炒り上げたほうじ茶で、北陸の加賀地方を中心に親しまれている。程よく歩いた体に冷たいお茶はすっと染み込んだ。ほんのりと香ばしく、そして甘いすっきりとした味わいだ。

 芭蕉も、このお茶を飲みながら句を読んだのだろうか。川床の先には、あゆの友釣りに勤しむ釣り人の姿が見えていた。

 ——夏だなぁ。

 そこにあるのは自然の木陰と川のせせらぎ。

 川沿いを吹く心地よい風と、よく冷えた加賀棒茶。 

 他には何も、いらなかった。

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川口貴史
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