『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (22) 休職から退職へ
小野寺先生は明治38年9月から二年生になりました。諸先生の講義が次々と開講され、そのなかに金一先生と稲田先生の内科の講義もあったということですから、金一先生は赴任してまもなく、年度の途中の明治39年3月か4月あたりから講義を始めたのではないかと思います。金一先生は和服姿で教壇に上がって小野寺先生を驚かせました。講義は朗読的で、それもまた学生たちを驚かせたということですが、朗読的な講義というのはどのような講義だったのでしょうか。
小野寺先生が三年生のときというと、明治39年9月から翌明治40年6月あたりまでのことになりますが、外来診断のとき、金一先生の診断は「疾駆的」に早かったとのことで、小野寺先生は金一先生の診断の態度に疑問をもつこともありました。金一先生は診断はあまり得意ではなかったらしく、小野寺先生は「中教授大腹膜癌腫と診断、住田先生結核性腹膜炎と診断し切開す。住田先生当る。中先生穴にも入りたき心地ならん」などと日記に書きました。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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