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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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#安倍能成

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (10) 関口の大洗堰の別…

 兄に連れられてある海岸へ連れていかれたこともありました。そのおりの情景は「つむじまがり…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (13) 巌頭之感

 山田さんの没後、遺稿集が編まれ、『山田又吉遺稿』という書名が附されて没後3年目の大正5…

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一高のクラスメートたち

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (17) 選抜試験

 7月に入って身体検査があり、それから学科試験が行われました。試験科目は5科目。7月5日は数…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (18) 神戸にて

 既述のように、中先生の兄金一がドイツ留学を終えて帰国したのは明治38年11月のことでした。…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (28) 一高の日々の回想

 中先生は一高在学時代の思い出をほとんど語りませんでしたが、友人の安倍能成に自伝『我が生…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (29) 漱石先生の授業を受ける

 学校がいやでたまらず放浪を繰り返す中先生はひとりで歩いていたのではなく、いつも山田さんがいっしょでした。いっしょに散歩をするというよりも、付添いのような恰好で、完全に奉仕的な態度でした。山田さんは、「なんでも中のいうとおりにしようと思う」とたびたび口にしていたとのことで、感謝しても感謝しきれない、むしろいくら詫びても詫びきれないというべきであろうと中先生は「瑠璃鳥」に書き留めています。中先生がこのエッセイを書いた時期ははっきりせず、昭和25年(1950年)ころと推定されるの

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (30) 藤村操の死

 いよいよ試験が始まってしばらくすると夏目先生は生徒の机の間をまわりはじめました。単語を…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (31) 東京朝日新聞の記…

 藤村操の死は大きな反響を呼びました。一例として、東京朝日新聞の伝える第一報を引いてみま…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (32) 「藤村操君絶命辞…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (33) 反響の数々

 藤村さんの死をめぐって、安倍さんの自伝『我が生ひ立ち』からもう少し引いてみたいと思いま…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (34) 藤村家の人びと

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (35) 山田又吉の書簡よ…

 藤村操の死は一高の同級生たちに深刻な影響を及ぼしました。一高の第一年目の三学期のことで…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (36) 良寛さんの歌

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