『銀の匙』の泉を求めて
-中勘助先生の評伝のための基礎作業 (29) 漱石先生の授業を受ける
学校がいやでたまらず放浪を繰り返す中先生はひとりで歩いていたのではなく、いつも山田さんがいっしょでした。いっしょに散歩をするというよりも、付添いのような恰好で、完全に奉仕的な態度でした。山田さんは、「なんでも中のいうとおりにしようと思う」とたびたび口にしていたとのことで、感謝しても感謝しきれない、むしろいくら詫びても詫びきれないというべきであろうと中先生は「瑠璃鳥」に書き留めています。中先生がこのエッセイを書いた時期ははっきりせず、昭和25年(1950年)ころと推定されるの