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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (8) 中金一の医学修業
中金一が入学した時期の一高は三部制で、第一部、第二部、第三部に分けられていました。一高の卒業生は帝国大学に進むことが前提にされていて、帝大ではどのコースに進むのかということが基準になって一高での所属学科が決められます。第一部は法科大学もしくは文科大学への進学を志望する生徒が所属する学科で、その第一部学科がさらに三つに分かれていました。ひとつは英法科で、第一部学科卒業英法科志望の卒業生33名の中に、後年の憲法学者美濃部達吉の名が目に留まります。ほかに文科志望の卒業生が15名、独法科志望者が3名で、第一部学科の卒業生は全部で51名でした。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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