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SNSによる「民主主義の完成」

 選挙制度の歴史というのは似たようなパターンを取ることが多い。
 まずは高額納税者に選挙権が与えられ、それに対する不満から社会運動が起き、少しずつ納税金額が下げられ、男性普通選挙となり、最終的には男女普通選挙が実現する。

 選挙権の拡大は、すなわち社会に対する影響力の増大を意味する。選挙権のない人が何を言っても世の中(権力者)に大した影響がないので、基本的には無視される。その意味では選挙制度の歴史は声なき声を世の中に反映させていく過程だとも言える。

 これと同時並列的にメディアの発達が進み、人々が政治(社会)に参加する機会が増えていった。瓦版、新聞、書籍、ラジオ、テレビ、ネットとメディア多様化していく中で、「些末なこと」として無視されてきたような意見が人の目に触れるようになっていった。

 しかし、改めて考えてみると、従来のメディアとネットとでは根本的な違いがあることに気付く。それは「編集者」というフィルターの存在だ。
 
 新聞やテレビでニュースとして扱われるのは記者や編集者が「価値がある」と判断した場合のみである。そうした編集者のフィルターを通過した意見のみが世間の目に触れる権利を有する。その意味で彼らは社会的な価値の有無を判断する裁判官だとも言える。

 その価値判断をどのような基準で行うかは完全に主観である。自分たちの思想と近い意見は優先的に取り上げられるし、逆もまた然りだ。あるいは不祥事など自分たちに都合の悪い情報を隠蔽することだってできるし、スポンサーや利害関係者の意向で価値判断がなされる場合もある。

 それはもう完全に「権力の濫用」であるが、「権力の濫用だ!」という意見に「価値がない」と判断されてしまえば、そうした意見が世に出ることはない。ゆえに彼らは無敵だ。

 そのような「社会に対する発言権」を独占してきたメディアに対し、その傲慢さへの怒りや不信感を抱きながら育った世代としては、ネットの登場は救世主のように思えた。これで奴らの横暴を正せる。そんな期待を持ってネットという新しいツールを迎え入れたように思う。

 しかし、当初は何とも思っていなかった「編集者の不在」に潜むリスクを昨今は考えざるを得ない状況になってきている。

 漫画家や小説家を目指すには出版社に作品の持ち込みを行い、「これは売れる」と編集者に判断してもらえれば漫画家や小説家になれる。これにはゴミのような作品が氾濫することを防ぐという機能がある一方、編集者の力量を越えるような作品がゴミ扱いされてしまうというリスクも伴う。

 有名な作品が実は〇〇社ではボツにされたというような話もよく聞く。このリスクは多様な出版社が存在することで回避できるだろう。

 しかし、ネットの登場はこうした流れを覆した。いわゆる「なろう系」のように、編集者のフィルターを通さずにいきなり作品を世に発表できるようになったのだ(このnoteもそうだけど)。

 昨今はなろう系の小説がどんどんアニメ化されているが、その流れは従来とは全く異なっている。

従来:持ち込み⇒編集者フィルター⇒出版⇒売れるor売れない
現在:公開⇒一般人フィルター⇒流行る⇒出版・メディアミックス  

 つまり、「価値判断権」は編集者から取り上げられ、一般人に付与されるようになっている。
 出版社としては売れない作品を出して赤字を出したくないので、ビジネス的にはこっちの方がいいのだろう。ネットで公開されて人気になっているので、ヒットするのは約束されたようなものだ。
 売れるのがわかっている作品を後追いで出版し、メディアミックスすれば利益を出せるので、こんなにありがたい話もない。

 そして、こうした現象が言論界で起きているのが昨今の情勢だと思う。

 SNSで発言⇒バズる・炎上する⇒記事にする⇒アクセスを稼ぐ

 肯定的にとらえるならば「社会への発言権」が記者などの編集者から取り上げられ、一般人に開放されたと言えるかもしれない。

 しかし、どうしようもない漫画や小説を書くのと、どうしようもない意見を社会に発信するのとでは影響力が全く異なる。

 本人を目の前にしたならば絶対に言えないような敬意のない発言や、事象に対する認識力、読解力がおよそ社会基準を満たしていないような意見までが素のままで発信される。

 「価値判断権」を記者や編集者から一般人、あるいはマーケットに委ねてしまっているので、そのような愚にもつかない意見も炎上さえすれば価値があるという判断になる。

 下品な言い方をすれば、どうしようもないバカによる、どうしようもないバカな意見であっても、どうしようもないバカが大量に釣られれば「社会に対する発言権」を持つということだ。

 何気にこれは人類が迎えた初めての機会であるように思う。これまでは民主主義といってはみても、議論に値するかどうかといった「社会に対する発言権」は「編集者」によって独占されていた。
 ネットはこの発言権を全ての人々に開放し、「民主化」を進展させた。

 編集権は人々に委ねられ、旧メディアは「話題になったこと」を後追いで記事やニュースにするようになった。何が大切かを判断する権限が人々に委ねられたという意味では「民主主義の完成」ともいえるのかもしれない。

 プラトンやアリストテレス、トクヴィルなど民主主義のリスクを指摘した先人たちは数多い。こうした事態に対処するためには我々一人一人が「正しい」価値判断を行い、発言権を与えるべきではないような意見はあえて「話題にしない(炎上させない)」という、いわば集団で意図的に無視するという態度をとらなければならない。

 そんなことが果たして可能だろうか。

 無理じゃないかな。

 現実的な対応策は
 SNSで発言⇒バズる・炎上する⇒記事にする⇒アクセスを稼ぐ

 というチャートの「記事にする」の部分をやめることではないだろうか。SNSで一部だけが盛り上がるのは居酒屋で仲間内のぶっちゃけトークをするのと大して変わらない。酷い発信であっても社会の目に触れることはあんまりない。やはり、問題は炎上案件を後追いで記事にし、さらに炎上させるという旧メディアにこそ本質があるように思う。

   「子持ち様」を始めとした「〇〇論争」とかいうのも、本当にごくわずかが愚痴レベルで言っているだけなのに、取り上げることで「社会問題」のように「昇格」させ、分断を煽っている。その悪影響は計り知れない。

 地道に取材したり「足で稼ぐ」のは大変だと思うけど、TVを見たり、ネットサーフィンして話題になったことを記事の起こすだけの仕事を「ジャーナリスト」とは言わない。
 SNSに上げれないくらい切実で切迫している人だっているし、そもそも使わない人だって多い。ネットの声=人々の声ではないのだ。

 悔しいが、まだまだ「社会に対する発言権」は旧メディアに残されている。その自覚とプライドを持って価値判断を行ってもらいたい。

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