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知識は興味と快感の源
前回書いた「2023年上半期のニュースを3つ調べる」という課題。結構、思い付きだったけれども、チェックしていたら意外と悪くない課題だったことに付く。
まず、生徒の興味がよくわかる。3つとも著作権や肖像権に関わるニュースを選んでいる生徒、特定のスポーツに関するものを選んでいる生徒、同性婚やペット休暇といった特徴的なものを選んでいる生徒、という具合にその生徒の関心が浮き彫りになるので、面談や指導の際の取っかかりになる。
それと、それぞれが抱えている課題がはっきりとする。与えられた課題に向き合う我慢強さが身についていない生徒、文章を書く力が育まれていない生徒、適切な検索ワードを打ち込むリテラシーが不足している生徒、時事問題に興味を持てるほどの基本的な知識がない生徒など。
手が止まっている生徒に目指している学部を聞く。
「経済学部です」
「じゃあ、2023、ニュース、経済とかで検索してみたら」
これである程度いけると思うのは甘い考えであった。
画面を一緒に見ると「中国経済デフレに突入?」とか「GDPが~」とか「金利が~」とか「消費者物価指数が~」とか様々な文字が躍る。経済なんか山ほどニュースがあるから楽だろうと思うのだが、一向に筆が進まない。
「どれでもいいから興味あるのを選んでみたら?」
「先生、デフレって何ですか?」
経済学部を目指しているのにデフレも知らんのか…。
そう思わないでもないが、それは教科担当者である自分の責任。
このやり取りで再認識するのは「興味を持つ」というのはそれなりに高い能力が必要だということ。
確かに1つの文章に3つも4つも聞いたことがない単語があったら我々だって読むのはしんどい。大学の物理や化学の教科書を読めと言われても読めないし、興味だって湧かない。彼らにしたらそれと同じことなのだ。
まずは興味を持てるレベルまでは我慢して勉強するしかない。野球だってサッカーだってテレビゲームだって最初にルールを覚えるのは面倒だし、苦痛が伴う。でも覚えた後に楽しいことが待っているという確信があるからなんとか頑張れる。
しかし、学業はそうでもない。覚えた後の楽しさなんて、楽しさがわかるレベルになるまではわからない。そして、彼らは学業という分野でそのレベルに達した経験が少ない。だから、我慢がきかない。
我慢の後に楽しさがあるから我慢ができる。でも楽しさがあることがわからない、あるいは我慢する能力が育まれていない、という場合、どうやってモチベーションを上げていけばよいのか。これは実に難しい。
一度我慢の先の楽しさを知れば、好循環が生まれてどんどん伸びていく。しかし、我慢する能力が足りない、楽しさも知らないという場合は悪循環が生まれてしまう。バカにされた経験や劣等感がどんどん彼らのやる気を奪っていく。
昨今は「探究」なるものが推奨されている。押し付けよりも自ら興味関心を持ち、考えることこそ大切だという風潮がどんどん広がっている。
それは全く持って正しいと思うが、以前もあった「詰め込み教育」と「ゆとり教育」と同様、なぜこうも極端なのだろうかと思う。「詰め込み」が推奨されれば10:0で詰め込む。「ゆとり」が推奨されれば10:0で詰め込みが悪だとされる。
要するにどっちも大事なのだ。後は相手に合わせて割合を8:2にしたり、6:4にしたりする柔軟性や応用力が教員には求められる。しかし、昨今は「探究」が善で「詰め込み」が悪という雰囲気が強く、「発表」や「対話」、「調べ学習」を盛り込む授業が最先端、講義式の授業は昭和感という暗黙の空気があり、「発表偏重」とも言える状態が続いてる。
結果として、考える前提となるような知識すら身についておらず、「興味」すら持てない生徒が増えているように思う。探究どころではない。
かといって今更「まずはこれを覚えよう」といっても、我慢して覚えるという苦痛に耐性が付いてないのでこれまた難しい。この流れ、日本社会にとっても非常にマズイのではないかと密かに思う。ちなみに件のデフレも知らない経済学部志望の生徒だが、デフレなど知らなくても入れる大学は腐るほどある。
「ゆとり」という言葉はヌルさや甘やかしを連想する語感なので、揺り戻しが早かった。しかし、「探究」となれば否定するのは難しい。「甘やかすのはよくない」は受け入れられる要素があるが、「探究するのがよくない」という文章は支持を得にくいのだ。
「探究」を大事にしている感を出すためには「発表」やら「グループワーク」やら「対話」やらが推奨される。そうしたものが大規模に導入されるようになって浮き彫りになったのは、「発表」やら「グループワーク」やら「対話」やらは質が低くてもそれなりに成立してしまうということだ。
恐ろしく低次元なグループ討議をしても、「討議」自体が「探究的」とされるので、内容が伴ってなくても褒められる。
「発表」などはキーノートやパワーポイントを駆使すれば意外なほど「それっぽく」できてしまう。発表慣れしていない世代には「凄い!」と映りがちだが、今の世代はスマホを使っていとも簡単にスライドを作れる。スライドに基づいて前で喋るなど、実は大した能力ではない。慣れれば誰でもできる。
実際に発表の後で個別に質問すると、恐ろしく発表した本人が内容を理解していないことが判明したりする。でもそれは質問しないと意外とバレない。トヨタやアマゾンがパワーポイントを禁止したのは賢明だと思う。
というように、課題を通じて改めて同じクラスでも多種多様な課題を持っていることに気付いた。しかも、教育政策や社会情勢とも関連していて根が深い。これを40人1クラスで対応すること自体が無理ゲーではないかと諦めたくもなる。
抱え過ぎないよう、できる範囲でとりあえず頑張ろうと思う。