![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20054249/rectangle_large_type_2_d1c5c2091c0faa6e425b5bd1ea99df72.jpeg?width=1200)
その素直な怒りに、わたしは確かに救われた
一度だけ、小説の「解説」を読んで泣いたことがあります。
小説『雨の降る日は学校に行かない』の解説。声優・女優の春名風花さんが手掛けたものです。
素直な怒りの言葉は、中学生のわたしが抱えたものでした
表題作「雨の降る日は学校に行かない」に登場する学級担任の川島先生は、いじめを受けている「さっちゃん」に対して「もっと努力してさ、うまく生きられるようにならないとな」と言うなど、なんとも配慮に欠ける対応を繰り返す。
挙句の果て、いじめをしている張本人を挙げて「飯島みたいに明るい子を見習って」と言います。
“担任の川島先生最悪。こういう先生大嫌い、許せない。”
『雨の降る日は学校に行かない』相沢沙呼,2017,p267 より
とても素直な言葉だと思いました。
“本の中に入ってぶん殴りたい。”
同上
とても素直な怒りの表現でした。
最初にこの解説を読んだ時、自分が怒りを必死に封じ込めていたことに気づかされました。
“これだけの言葉を飲み込んで、我慢して、一体どれほどつらかっただろう。こんなこと、たとえ実在しない先生でも許せない。”
同書 p268 より
思っていること、苦しさ、しんどさ、願い、痛み、いろんなものを封じ込めて、ただただしんだように生きていました。中学1年生、12歳の時です。
当時の担任の先生は、川島先生とソックリ。わたしはさっちゃんと比べるとまだ器用なほうだったので、先生はよく「中村は手のかからない生徒だから」と言いました。いじめが起きていることも知らずに。
それでもわたしは先生に「許せない」とは言えませんでした。
先生だって忙しいだろうしとか、生徒はわたしだけじゃないしとか、周りを気にして自分のことは置いてけぼり。
そんなわたしは、春名風花さんの“こんなこと、たとえ実在しない先生でも許せない”という素直な怒りに、確かに救われたのです。怒っていいんだ、悲しんでいいんだ、無理に許さなくてもいいんだ、と思えたのです。
***
大人のことが信頼できなければ、子どもは心のうちなんて明かしません。明かされないまま、その鬱々とした感情は熟成し、腐敗していく。もはや自分ではどうしようもない、とてつもなく大きな暗闇を生み出します。
わたしはかつて、その暗闇を抱えた子どもの一人でした。本作に登場する女の子たちは、かつてのわたしだったのかもしれません。
“行きたくないんじゃない。行かないんじゃない。ただ、ただ、みんなと同じように、普通に学校に行きたい。強制的に行けなくされているだけだ。それなのになぜ、いじめている子たちは学校に行けて、それを咎める事もしないで、いじめられた子には「つらかったら学校に来なくてもいいんだよ」なのだろう。”
同書 p269 より
「学校に行かなくていいんだよ」
夏休み明けを中心として、そんな声がいろんな場所からあがるようになってきました。それ自体はとても良いことだし、子どもたちにとって救いのひとつとなると思います。
でも、じゃあ、実際に学校に行かなくなって居場所を見失っている子どもがその後に行く場所は、用意できているのでしょうか?
「学校は行きたくないけど、家には居られない」と苦しむ子どもたちに「ここに行けばいいんだよ」と言える大人はどれほどいるのでしょうか?
苦しくて家を飛び出した子に「悪い」の烙印を押すのは簡単
SNSで「#神待ち」と検索すると、家出をして今日寝る場所に困っている子どもたちや、おそらく100%の善意ではないであろう大人たちの投稿が並びます。
ある17歳の少女は、母親に「汚い」と言われて家を飛び出した。行く当てはなく、名前も知らない男性のもとに泊まるという。
AERAdot. - 少女たちの「#神待ち」に「泊め男」の怒涛のリプライ…SNSに溢れる下心の闇 より
この17歳の女の子は、きっと社会では「非行少女」と言われるのでしょう。
「17歳なら、SNSで知り合った人に会う危険性を分かってるでしょう」
「知らない人の家に泊まるなんて、だらしない」
そう断罪することは簡単です。でも、本当にこの女の子は「悪い」のでしょうか。たった一人、この女の子だけが悪者なのでしょうか。
彼女の暮らす世界と、わたしたちの暮らす世界は、断絶することのできるものなのでしょうか。
わたしは不登校を経験したし、いまも不登校の子どもたちの居場所づくりを仕事にしています。わたし自身は家出することはなかったけど、深夜徘徊をしたり他人の家に泊まらせてもらったりする中高生の女の子たちの話はよく聞いていました。同級生にもいました。
「毎朝起きる度に“よかった、どこもケガしてない”って思うの」
「怒った声が怖くて、両親が寝静まるまで新宿で過ごす」
「身体でもなんでも、求めてもらえてやっと“生きていいんだ”って思える」
彼ら彼女らに「危ないよ」「家に帰らないと」と言うのは簡単です。実際、保護された少年少女たちは基本的に家へと帰されます。
その家は、(少なくともその子にとっては)決して安全・安心の保たれた場所ではないというのに。
学校に通うのは良いこと?
きちんと門限を守って品行方正に過ごすのは良いこと?
親に「産んでくれてありがとう」と言うのは良いこと?
学校に通わないのは悪いこと?
深夜に都会をフラついて知らない男性に着いていくのは悪いこと?
親のことを心底憎んでいるのは悪いこと?
「明日が来るのが怖い」「今日を生きていたくない」「しぬよりつらい」
その苦しみを素直に出すことが許されず、湾曲した形で発散するしかない。そんな彼女たちの行動を、「悪い/良い」で明確に区別することなんて、できないのです。
その行動は決して褒められたものではないのかもしれないけれど、どうにか、その奥にある苦しみに、嘆きに、一瞬でもいいから、目を向けてみてはもらえないでしょうか。
“誰にでも与えられる当たり前の生活を、学校を、誰かに無理やりにもぎ取られ、取り上げられる事はあってはならない”
“いろんな生き方があっていい。無理に学校に行く必要はない。嫌なら行かなくてもいい。それは優しさや思いやり、本人の身を案じての言葉かも知れない。けれど、当たり前の、誰にでも与えられる当たり前の生活を、学校を、誰かに無理やりにもぎ取られ、取り上げられる事はあってはならないと思う。”
『雨の降る日は学校に行かない』相沢沙呼,2017,pp268-269 より
いじめを受けた子どもが別室登校をする。
虐待を受けている子どもが施設に行く。
学校に馴染めない子が転校する。
安全を確保することは大切です。そのために一時的にでも他の場所を用意する時もあるでしょう。でも、「いじめられた側が居場所を追われる」ことはあってはならないのです。
転校は新たな居場所を見つける選択肢のひとつだし、施設は安全を守るために心強い場所です。しかし、その道はあくまで「自ら選ぶ」ものであってほしいのです。
わたしは学区外の学校に転校するという道を選んだけれど、それは「自ら選んだ」道でした。いじめてきた同級生だけでなく先生も信頼できなかったし、校則にも納得していなかった。
わたしは「転校を余儀なくされた」のではなく、「再登校や保健室の利用を“選ばず”に、転校を“選んだ”」のです。
でもきっと、それは稀なケース。
転校していった子たちの中には、「本当は学校に行きたかった」「本当は部活動は好きだった」「本当はこの学校で、このクラスメイトたちと卒業したかった」と思っている子だって、少なからずいると思うのです。
その子たちにとって、「学校に行かなくてもいいんだよ」は、どんな言葉なのでしょう。
“「わたしっ、悔しいっ、悔しいよっ……! ほんとうはっ、わたしだって、わたしだって、学校に行きたい! 学校で、友達を作って、普通に勉強したかったっ! 普通に、みんなと一緒にいたかったっ! それなのに、どうしてっ、どうして、わたしが、わたしだけがっ……!」”
同書 p249 より
そう叫ぶさっちゃんにとって、「学校に行かなくてもいいんだよ」という言葉は、どういう意味を持つのでしょうか。
救いとなり得るのでしょうか。
わたしは、その言葉が、さっちゃんの、本当は学校に行きたいと思っている子の背中を、絶望の底へと向かって押すものになってしまいそうで、怖いのです。
だってさっちゃんが求めているのは、「行かなくていいんだよ」なんて甘さを帯びた言葉じゃなくて、安全に通える学校と、笑顔でお喋りできるクラスメートなのだから。
さっちゃんが心の底から欲しているのは、「学校以外での居場所」ではなく、「学校の中での居場所」なのだから。
「学校に行かなくてもいいんだよ」の先へ
繰り返しますが、「学校に行かなくてもいいんだよ」「居場所は自分で選べるよ」というメッセージが出てくるようになったのは、とても良いことだと思います。個人的にもとても嬉しいし、不登校支援に携わる者としても喜ばしい。
ただ、まだ足りないのです。
「学校に行かなくていいんだよ」の先を見据えなければならないのです。
学校へ行かずとも、きちんと他者との関わりが持てて、学ぶことのできる環境を作ること。
「学校へ行きたいのに行けない」と思っている子には、きちんと学校の中に居場所をつくること。
いじめが起こった時、被害者のケアとは別に加害者のケアにも注力し、被害者を避難させるだけではない仕組みをつくること。
そういうものが必要になってきているのではないでしょうか。
だって、嫌じゃないですか。12歳前後の子どもたちが「あ、ここにはわたしは居てはいけないんだ」と感じるなんて。本来欲しいものを我慢して、場所を追われ、気持ちを封じ込まれてしまうなんて。生きる意味を、自分の価値を、感じられなくなるなんて。
そんな社会、次の世代にそのまま託すわけにはいかないじゃないですか。
子どもには子どもらしく、たくさんの人から愛されて、大切にされて、たまに喧嘩もして、捻くれたり、素直になったりしながら、育っていってほしいじゃないですか。
そうやってちゃんと成長できる社会に、していきたいじゃないですか。そういう社会を創ってきたんだぞ、って誇りをもって次の世代へと託したいじゃないですか。
「学校に行かなくてもいいんだよ」
そんな言葉が当たり前になって、言う必要もなくなって、さらにその先へと進んでいきたい。
子どもたちが自分の居場所を選び取るために痛みを伴わなくて済むような世界を目指して、わたしは今日も一生懸命働いているのです。
小説『雨の降る日は学校に行かない』、それぞれの話ももちろん好きなんだけど、春名風花さんの解説が一番好き。最初に読んだ時、春名さんの素直な怒りや心配に、とても救われた。「怒っていいんだ」「悲しんでいいんだ」と思えた。
— たかれん|Riz代表 (@takaren_kktm) January 29, 2020
今でもたまに読み返す。大切な本のひとつ。
いいなと思ったら応援しよう!
![たかれん](https://assets.st-note.com/poc-image/manual/preset_user_image/production/ic3fd94079689.jpg?width=600&crop=1:1,smart)