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【大人のファンタジー】主人語り(あるじがたり)

<あらすじ>
都会の真ん中にある森を見下ろせるマンションのベランダに、優しく、親切で、マイペースな性格の犬が暮らしていた。犬には主人(あるじ)である家族がいた。犬はすくすくと育ち、やがて潮風が吹く海辺の街へ一家ともども引っ越した。
そこは、主人への尊いまでの愛を語る犬たちが住む街だった。その中で一家は、ささやかな幸せを謳歌する。
しかし突如として表出した、予期せぬ運命に翻弄される一家。そして始まる、母を亡くした作家と主人を無くしたヨークシャテリアとの出会いと交流。
理不尽な日常の裏側に潜むのは、ファンタジー(非現実)かディストピア(現実)かーー。優しく切ない、宝丸ワールドここに開幕。


1夜|ベランダの犬


都会の真ん中にある10階建ての古いマンションのベランダからは、緑に覆われた森が見下ろせた。
そこは寺という場所であると、幼くて何も知らない仔犬のボクに、旅のカラスが教えてくれた。

当時のボクは背丈が低く、台に乗ってようやくと、頭をベランダのフェンスの上から覗かせることができた。そこから眺める景色がボクは好きだった。

見下ろすと、ビルや家の屋根などの街並みが、モザイクのように広がっているのが見えた。どこまでも広がって、どこまでも続いている。森はその中央にあった。ボクに森のことを教えてくれたカラスは、そこに住んでいた。とは言っても、仮の宿であった。カラスたちは季節ごとに、そろって旅をする。そして季節の終わりに、都会の外れにある、仲間のネグラに帰っていくのである。

森を見下ろすボクの毛並みを、初夏の風が撫でたとき、目の前をカラスの影が通り過ぎた。そして空中で速度を落とし、旋回すると、隣の部屋のベランダに止まり羽を休めた。

ボクたちはいつも通りに挨拶を交わした。

「調子は、どうだい?」
「なかなか楽しいよ!ママさんも、お姉ちゃんも、パパさんも、皆親切にしてくれる!」
「そうか、そいつは大したものだな」

カラスは笑みを浮かべながら、羽づくろいを始めた。

そのカラスは親切だった。ボクはいろいろなことを教わった。
この都会の向こう側には、異なる世界がある。カラスの故郷の雑木林には争いごとはなく、平和な世界のようだ。その点都会は、食べ物は豊富にあるくせに、住み心地が悪いという。とりわけ、子育てには向いていないらしい。

――都会の人間はたちが悪い。

と言って、カラスはいつも眉をしかめているのだ。


季節が過ぎて旅の終わりに、カラスが別れの挨拶に訪れた。そして最後に忠告をしてくれた。

「人間には気を許さない方がよい。あいつらは実に自分勝手な生き物だ。信じすぎると痛い目をみるぞ」

ボクは猛反発をした。ボクの家族はみんな良い人なのだ。ママさんだって、お姉ちゃんだって、パパさんだってーー。どこがどうと言われても困るのだが、兎に角みんな、ボクの大切な家族なのだ!
そう告げるとカラスは苦笑いを浮かべ、「お前と喧嘩して別れるのは忍びない。そうならないことを祈っている」といって飛び立っていった。


ボクを飼うと言い出したのは、お姉ちゃんのヒナタちゃんだった。どうやらボクは珍しい種類の犬らしい。お姉ちゃんが一番推しているアイドルが飼っている犬と同じということだ。それが、お姉ちゃんの自慢だったりするらしく、家に友達を連れてきては、その前でボクのことをほめちぎるのだ。

ボクの朝は、ご飯を済ませた後の、お姉ちゃんの見送りから始まる。お姉ちゃんは毎朝ランドセルを背負って学校へ出かけた。見送りのためだろうか、パパさんもお姉ちゃんと一緒に家を出る。
二人揃って出かけるクセに、パパさんだけ帰りが遅いのは不思議である。

ボクの日課である散歩は、もっぱらパパさんの役目だ。ママさんは忙しすぎる。お姉ちゃんはボクのリードを持ちきれない。何しろボクの御先祖は、荒野を駆け回る狩人だったので体力には相当に自信があったりする。
なので、ボクはパパさんの帰りが待ち遠しくて仕方がない。帰りの時間になると、玄関が開いた瞬間、ダッシュして出迎える。

パパさんは支度を整える。お風呂が先か、ご飯が先か、散歩が先かをママさんに聞かれると、大抵は散歩が先になる。ご飯と一緒にお酒をゆっくり飲みたいので、早めに済ませてしまおうと思うのだ。
パパさんの着替えが整うと、エレベーターという名の上下に動く鉄の箱に乗って、ボクたちは1階まで一直線に降りる。そしてリードをグイグイ引っ張って、ボクはアスファルトの歩道に飛び出していく。

一つ先の角を曲がると、ここからは、森への一本道だ。ボクは電信柱にマーキングをしながら、森へ森へと急ぐ。
一歩森に踏み入るとアスファルトが途切れて、土の道が現れる。ボクは下草を掻き分けて、周囲の匂いを嗅ぎまわる。土と草の香りが強く漂う。木々の緑の放つ呼気も感じる。
見上げれば、こんもりと葉が茂っている。枝にカラスが止まっていた。ボクはカラスに話しかけた。
しかしそれは、あのカラスであろうはずもなかった。


育つにつれてこの家は、ボクにとって、少しずつ手狭になっていった。
決してボクのせいではないと思うのだが、ちょっとばかり、体が大きくなりすぎたようだ。

ある日お姉ちゃんが、「こんなはずではなかった・・・」と愚痴を漏らしたことがあった。すると、ママさんが大声でお姉ちゃんを叱り飛ばした。

「いい加減にしなさい!飼いたいって言ったのはヒナタなのよ。生き物を何だと思っているの!次言ったら許さないわよ!」

お姉ちゃんはふくれ面になったが、「わかってるよ・・・・ちょっと言っただけじゃない・・・・」と言いながら、ボクの目をじっと見た。ボクも上目遣いでお姉ちゃんのことを、じっと見つめた。
するとお姉ちゃんの表情が緩んで、ボクのオデコに手を置いた。

「そんなの、わかってるよ!」
お姉ちゃんの笑顔が嬉しかった。

あるとき、お姉ちゃんが熱を出して、学校を早引けしたことがあった。
ボクが出迎えたときにはすでにフラフラだった。ママさんから「自分の部屋で寝なさい」と言われても、リビングのソファーまでたどり着くのがやっとだった。

倒れ込んで寝てしまったお姉ちゃんを、ママさんは体温計で熱を測ったり、おでこを冷やしたりして看病をしていたが、薬屋さんにでも行くのだろうか、「すぐ帰るからね」と言い残して出かけてしまった。

ところがこんな日に限って、早い時間にパパさんが帰ってきた。
パパさんは時々こんなことがある。前回のときは、徹夜明けだと言っていた。今回は、どうなのか・・・

事情を知らないパパさんは、リビングで寝ているお姉ちゃんに声をかけた。しかしお姉ちゃんは、目を覚す気配がない。

暇を持て余したパパさんは、テレビの音でうるさくするわけにもいかないーーとばかりに、「散歩にでも行くか!」とベランダからボクを連れ出した。
早い時間だったせいかもしれないが、この日パパさんは入念に散歩をしてくれた。ボクは大満足して、足取り軽く帰宅した。
しかし家に誰もいない・・・変だとは思ったが、パパさんは何も思わなかったようだ。誰もいないのをいいことに、テレビを見ながらお酒をグラスに注ぎ始めた。

しばらくすると玄関のドアが開いた。二人分の気配がする。ボクは玄関にダッシュした。
ところが二人は、ボクの顔を見て、悲鳴を上げるではないか。二人が驚くのを見て、ボクの方がビックリしたほどだ。まるでお化けでも見るような顔つきだった。お姉ちゃんに至っては、大声で泣き始めてしまった。
悲鳴を聞いてパパさんも駆けつけた。ほろ酔い状態なので顔が赤い。ママさんが目を見開いた。そしてすごい剣幕で怒鳴った!

「何やってるの?どこに行ってたのよ!」
「どこって、散歩に・・・・」

ママさんは絶句して、次の瞬間脱力したようにへたり込んだ。

「買い出しから帰ったらロンがいないので、ベランダから落ちたと思ったじゃないの!」

顔を真っ赤しながらに責め立てるママさんの横で、熱で顔を真っ赤にしたお姉ちゃんがボクの首筋を抱きしめた。

「よかった!ペチャンコになってなくて!生きてて、よかった!」

真相は、こうだった。
ママさんは、買い出しを済ませると、急いで家に帰った。
しかし、ベランダにボクの姿がない。そのはずだ。そのときボクはパパさんと一緒に散歩の真最中だったのだから。
ママさんは熱でうなっているお姉ちゃんをたたき起こした。しかし、ぐっすり寝ていたお姉ちゃんは、パパさんが帰ったことを知らない。
二人は青ざめた。

――ベランダから落っこちたのかもしれない!?

そしてつい先ほどまで、マンションのコンシェルジェさんと一緒に、一階の敷地内をくまなく探し回っていたのである。

お姉ちゃんはボクの首筋にしがみついたまま大声で泣き続けた。顔は涙でグチャグチャだった。ボクは優しいお姉ちゃんに感謝した。お姉ちゃん顔は涙でしょっぱかった。


そんな暮らしが続いたある日、ママさんが長い留守をしたことがあった。今度も旅行か何かだろうと思っていた。こうしたことはたまにある。でも大抵の場合、ママさんが留守だと、家の中をパパさんとお姉ちゃんがダメダメにしてしまう。

――そうならないうちに、早く帰ってきて欲しいものだ。

ボクはのんきにそう思っていた。
それにしても、随分と長い旅行だった。家の中もダメダメになり始め、困ったと思い始めた矢先、ママさんがひょっこりと帰ってきた。

それも赤ちゃんを連れて!

赤ちゃんはノハラちゃんと言う名前だった。
赤ちゃんを見るのは初めてだった。石鹸のような、ミルクのような良い香りがした。挨拶代わりに舐めたいと思ったが、叱られそうなので諦めることにした。

ベビーサークル越しに目が合うと嬉しくなった。小さな手のひらがグーパー、グーパーを繰り返す。それを眺めるボクのことを見て、ノハラちゃんは嬉しそうに笑った。ボクたちはウマが合いそうだ!

2夜|海辺の街


ノハラちゃんがハイハイできるようになると、ボクは格好の遊び相手になった。ボクの背中に馬乗りになるなんて四六時中だ。
ノハラちゃんがまたがった消防車のオモチャをボクが引っ張って、玄関からリビングまで爆走することだってある。
そうかと思うとノハラちゃんは、ボクを枕替わりにスヤスヤと寝入ってしまう。
ノハラちゃんのおかげで、家中に笑い声が満ちる。

しかしボクがそうだったように、ノハラちゃんの成長も早い。馬乗りされるたび、ボクはそれを思い知らされた。
ノハラちゃんのオモチャも毎日のように増え続けた。家中いたるところにノハラちゃんが散乱させるので、ママさんは大忙しだ。

でも不思議なことに、パパさんの持ち物も増えている。ゴルフバッグだとか大きな机とか。その上に乗せる、2台目、3台目のパソコンだとか。

話を盗み聞きしたところ、自分専用の仕事部屋が欲しいと、パパさんがママさんに手を合わせていた。
そういえば、仕事から帰っても、パソコンとにらめっこを続けることが増えたような気がする。
そんなことはほっておいて、ボクの散歩に、もっとたくさんつき合ってくれたらよいのに・・・・

それにしても、御機嫌がすこぶるよいのはめでたいことだ。ドライブ用の自動車も、大きくて、立派なヤツに買い替えた。こいつで遠出して、ドッグランに行くときは最高だ!

そしてある日のこと、パパさんが家族会議で全員を集めて宣言した。
「引っ越すことに決めた!今度の家は、タワマンだ!!」
こうしてボクは、森が見下ろせるベランダがあるこの家を、離れることになったのだ。


新しい家は、前よりももっともっと高い、まるで塔のようなマンションの上にあった。
地下の駐車場からロビーに上がり、コンシェルジェのお姉さんに挨拶をすると、いたるところから真新しい匂いがした。エレベーターも立派だった。しかも何台もある。上がり下がりのスピードもすさまじい。ボクは目が回りそうだった。

いざ玄関のドアを開けると、なんとも広い家だった。部屋もたくさんある。なんとボクの部屋もあるほどだ!
嬉しくなって、家中を転がり回った。それでも、誰からも叱られない。調子に乗ってはしゃぐボクと一緒に、ノハラちゃんもはしゃいで転がり始めた。

一つ不満があるとすれば、ここにはベランダがないことだろう。
窓はある。大きな窓だ。しかし開きはしない・・・お日様の光を導き入れる、それだけだ。それはそれで良い。窓のから入る光でできる陽だまりは、何にも増して暖かかった。
それでも、季節の風を感じることはできない・・・それを残念に思うボクは、わがままなのだろうか・・・

ボクを追うようにして、皆も窓辺に走り寄ってきた。そして歓声をあげた。
窓の向こうには広い空があった。街並みが見えない代わりに、キラキラとまぶしい何かが見える。あれは何だろうか。旅のカラスならば知っていて、教えてくれるだろうか?
そう思って探してはみたが、窓の外にカラスの姿はあるはずもなかった。


キラキラの正体はすぐに判明した。
夕方になるとボクたちは、散策に出かけた。ボクは窓辺の陽だまりに寝ころんで、皆が段ボール箱と格闘するのを監督していたが、残りは明日以降にしようということになったのだ。ボクに異論があろうはずもない。

例のエレベーターはボクたちを乗せて急降下した。扉が開くと、入れ替わるようにして、何とボクより大きな犬が乗ってきた!こんなところで仲間に出くわすとは!

ママさんたちは犬の御主人様に挨拶をしたが、ボクはというと、お姉ちゃんがリードをグイグイ引っ張るので、残念ながらその犬への挨拶はお預けとなった。

自動ドアの外に出ると、初めて嗅ぐ不思議な匂いがした。お姉ちゃんが鼻を膨らませながら言った。「潮風の匂い!」
パパさんが自慢げに答えた。「海が近いからね!」

ボクたちが越してきたのは、潮風が吹く街だった。


この街には至るころに水があった。ただの水ではない。潮風の香りに似た、不思議な匂いのする水なのだ。コンクリートの段差で遮られていたり、フェンスが張り巡らされたりして、直接触れることはできない。これがどうやら、この街のルールのようだ。

水辺に沿ってボクたちは歩き始めた。アスファルトで舗装されており散歩道になっているようだ。正面には夕日が見えた。何という大きさの夕日だろうか!放つ光からは圧すらも感じられる。それが水面に反射して、ボクたちをまばゆく照らす。知っているどの水面とも異なっている。聞いたこともない不思議な音も聞こえる。これはボクのほほを撫でる潮風の仕業だろうか。それとも違うのだろうか。

ノハラちゃんの足が止まった。そして「船!」と叫んだ!
「大きい船だね!」ママさんが答えた!
「海なの?」ノハラちゃんが目を丸くしながら訊いた。
「そう、海!広いね!」ママさんがノハラちゃんの肩に手を置いた。

夕日に染まったボクたち後ろには、五人の影が、散歩道の果てまで届くほど、長く、長く伸びていた。
潮風が強まった。水面の輝きが乱れたような気がした。
そのときボクは理解した。
目の前に水面が広がり、潮風が吹くこの場所のことを、きっと海と呼ぶのだ。


ノハラちゃんが歩き疲れたと言った。目の前に一軒の店がある。
美味しそうな匂いが鼻を突いた。どうやらレストランのようだ。

「少し時間が早いが引っ越し祝いを兼ねてご飯にでもしよう」とパパさんが提案した。

でもきっとボクは外で待ちぼうけだろう・・・などとたかを括っていたのだが、何と一緒の席に着くことができるというのだ!

ボクたちはテラスに用意された席に案内された。早い時間だったがお客さんが、まずまずいる。
一つ空けた隣の席に座ったカップルが犬を連れていた。挨拶をしようと思ったが少し距離が遠い。向こうも、ボクのことを横目で見ただけだ。ボクは結構マイペースな方だが、向こうも同じだったらしい。

お店の人が注文を取りに来た。

「今日くらい、こんな時間から飲んでもバチは当たらないよね?」――。
パパさんがママさんの顔色をうかがった。
「そうね。今日はわたしもいただくわ」ママさんも嬉しそうである。

ノハラちゃんは「お酒は大人になってから」と自分で言いながらジュースを注文した。お姉ちゃんは黒っぽい飲み物だった。

細いグラスに注がれた、泡の立つ、綺麗な飲み物が、パパさんとママさんの前に置かれた。
そして乾杯がされた。ノハラちゃんとお姉ちゃんは、ボクの鼻先にもグラスを当てて、乾杯をしてくれた!

パパさんとママさんのグラスの中に、美しい泡が無数に生まれては、消えた。夕日はそのすべてに平等に輝きを与え、グラスには夕日の美しさが映りこんだ。

パパさんはほどなくしてグラスの中身を飲み干した。そして二杯目を注文して、「ペースが速い!」とママさんから怒られた。
二杯目は「ソルティドッグ」と呼ばれる飲み物だった。

「塩漬けの犬という意味だ」とパパさんは自慢げに言った。
するとスマホを見ながらお姉ちゃんが、「違う。潮風や波を浴びながら働く水兵さんだ」と言い張った。
ノハラちゃんは、「ロンは塩漬けにならないし、水兵さんでもない!」と猛抗議した。
ママさんは、「潮風に吹かれる犬かもね!風に吹かれたらロンも気持ちがいいはずだよ!」と、ノハラちゃんをなだめた。
それを聞いたお姉ちゃんは、「潮風に吹かれて、ソルティドッグ!日向ぼっこで、ホットドッグ!」と言い直した。
このお姉ちゃんの最後のアイデアをノハラちゃんは気に入ったようで、それ以来、ボクをソルティドッグとホットドッグにすることが、マイブームになった。


この街での日常はすぐに始まった。

お姉ちゃんは今朝も学校に出かけた。この頃になると、とっくにランドセルを卒業している。何だか格好のよい制服を着て、背丈もママさんより高くなった。髪の毛も短くなって、なんだか凛々しく見える。

パパさんとは行動が別々のことが増えた。昔はあんなに仲が良かったのが不思議だが、最近は何だか素っ気ない気もする。そこだけがボクの気がかりである。

ママさんはアルバイトをやめたようで、家にいることが多くなった。でもその分、家が広くなったので忙しい。ノハラちゃんの送り迎えもある。
そう。ノハラちゃんにも、いろいろとあるのだ。ボクの知らないどこかに通い始めたらしい。そこでの友達もできたようだ。お稽古事も始まると聞いている。そのことで、ママさんとパパさんは毎晩ヒソヒソ話に忙しいほどだ。

パパさんに至っては、とんでもない忙しさだ。帰りが夜中になることも、ザラだったりする。ボクは必ず玄関まで迎えに出るように心がけているが、あまり遅くだと、少し面倒くさい。
それにしても帰る早々自分の部屋に直行して、パソコンに噛りついている・・・パソコンの台数もさらに増えた。あんなにたくさんのパソコンで何をしているのだろうか・・・

ただ困ったことに、お酒の度を過ごすことも増えた。夜中に酔っぱらって帰って、ママさんと大喧嘩になったことも一度や二度ではない。もちろんお姉ちゃんとノハラちゃんが寝静まってからの出来事である。
喧嘩が始まった途端、ボクは居た堪れなくなって、尻尾を下げて、自分のベッドに頭の方から引きこもり、耳を覆って狸寝入りをする・・・だって悲しいし、辛いし、情けないではないか・・・ボクはこういうことがホトホト苦手なのである。

そんな翌朝は、二人してほとんど口を利かない。そうするとボクの尻尾は、さらに下がり続けることになるのだ。
そんな日の午後は、散歩が気分転換にもってこいだ!それはママさんも同じらしい。

「散歩、行くよ!」

そういってママさんは気晴らしにボクを連れ出してくれる。ボクの尻尾はようやくと上を向く。

海辺の散歩道には、いろいろな店が立ち並ぶ。その中の一軒のカフェがママさんのお気に入りだ。ボクは何度もお供をしている。
テラスに席を確保して、「お利口に待っていてね」と言い残し、ママさんはコーヒーを注文しにカウンターに並ぶ。ボクが言いつけを守っていると、となりの席から声がした。

「ごきげんよう。最近よく見かけるわね。どこからきたの?」

見るとマダムに抱かれた小型犬が、隣の席から物珍しそうな眼差しを向けている。ちょっと生意気そうな若い女の子だ。

「この間引っ越してきたんだ。よろしくね!タワマンって、何だか凄いところだね」
「そうかしら?生まれてからずっとだから、良くわからないわ」

小型犬はすまし顔で言った。どうやら、別のタワマンに住んでいるらしいのだが、随分とプライドが高い女の子だ。でも、何といってもご近所さんである。ボクは鼻を突き合わせて挨拶を交わした。

ママさんがコーヒー片手に戻ってきた。

「すみません。うちの子が!」
「いいんですよ!男の子ですか?よかったわね!ボーイフレンドができて!」
「女の子ですか?可愛い!お名前は?」
ママさんはママさんで話が弾んでいるようだ。

小型犬は言った。

「あなたのご主人様って、どんな人?」
「どんなって・・・」

ボクは言葉に詰まった。だって、ママさんはママさんだし、お姉ちゃんはお姉ちゃんだし、ノハラちゃんだってノハラちゃんじゃないかーー。

だが小型犬はボクを無視して話しを続けた。

「うちはパパがね、とても偉いの!朝なんか、お迎えの車が来るくらいよ!ものすごく大きいピアノだってあるのよ!」

小型犬は自慢話を次々と披露した。ボクは「なるほど」と思ったものの、羨ましいとは思わなかった。だって、他の御主人様がいくら立派でも、ボクには関係ないではないか。ボクのナンバーワンはママさんであり、お姉ちゃんであり、ノハラちゃんであり、パパさんなのだ!比べられたって困るのだ。ボクは今のままで十分なのだ!


とはいえ、この街で暮らすうえで、事情を知ることは、まんざら悪いことではない。ボクは散歩のたびにいろいろな犬と話をして、情報を収集することを心掛けた。

そしてビックニュースがボクの耳に入ってきた!この海辺の街では夏になると花火大会というイベントが盛大に催されるというのだ!

ボクは花火も知らなければ大会も知らない。昔知り合った、旅のカラスは、そんなこと、何一つ教えてくれなかった。
だからボクはもっと情報を収集する必要がある。

いつもの散歩道で、ボクよりはるかに大きい犬が向こうからやってきた。何度も会っている知った仲だ。最初見たときは、見たこともないほどの大きさにびっくりしたものだ。
ボクは道の真ん中で、鼻を突き合わせて挨拶すると、花火大会のことを質問した。花火とパーティは、どうやらセットで開催されるようである。

「前回のパーティは、何しろ凄かった!オレの家はタワマンの最上階だろ。それこそ特等席じゃないか!だから我先にと争って、お客さんが大勢押し掛けるんだ!花火?見ればわかる!何かが弾けたかと思ったら、すごい音がして空気が震える!それもすぐ目の前で!お客さんから歓声も上がる!そのころになると、瓶の栓がポンポンと大きな音を立てて開いて、壁やら天上やらに跳ね返るんだ!さすがのオレもあの音に最初ビックリしたものだ!」

短髪が特徴的な珍しい犬も言った。

「毎年下界は凄い騒ぎよ。わたしたちは上の階の住民だから関係ないけれどね。下界っていうのはね、ワタシたちから見て、窓の下の方にいる人達のことよ。とにかく凄い人の多さだって御主人様が言っているわ。今いるこのカフェにも、人が溢れるの。だからその間、ワタシは散歩をお休みしないと。ほんとに迷惑な話だと思わない?」

どの犬も、「とにかく一度見て見ろ」の一点張りだ。いい加減諦めていたところ、その機会は意外と早くに訪れた。
ここにきて初めての夏、ボクたちの家でもパーティが開かれたのだ!

その日はまだ明るい内からお客さんが集まり始めた。夕方近くになると玄関が混雑するほどの人が我が家に押し寄せた。
ボクはその都度、玄関までダッシュして、出迎えるのに大忙しだ!

この日ばかりはパパさんも、甲斐甲斐しくママさんのお手伝いをしている。ママさんは、お客さんの相手をしたかと思ったら、お皿を配ったり、テーブルに御馳走を広げたり、大活躍である。

ノハラちゃんはボクのリードを握っている係だった。だがボクは比較的人気があるらしく、人波を縫って歩き回っても、結構可愛がってもらえたりした。だから、ボクに引っ張られるようにして、ノハラちゃんもお客さんの間を練って歩く羽目になった。

お姉ちゃんはというとキッチンでママさんのお手伝いという名目で、どちらかというと友達とのおしゃべりに熱中している。
ただ、ノハラちゃんがボクに引っ張られて翻弄されるのを見かねると、時々はボクのリードを握る役目を買ってくれた。

やがて夜のとばりが下り始めると、花火大会の本番だ。お客さんが海に面した窓の近くに集まる。そして、窓の外で破裂音がして空気が勢いよく震える。その瞬間、家中に割れるような歓声が沸き上がる!

その後も、お客さんは楽しそうにグラスに液体を注いでは飲み交わす。音と振動は絶え間なく続く。みんな、語らい、飲み食べ、笑い、時間が過ぎていく。

ボクとノハラちゃんは、お客さんからパーティグッズとかいう飾りの洗礼を受けた。三角帽子を頭にのせてくれる人もいたし、オモチャのメガネをかけてくれる人もいる。写真にも主役としてたくさん写った。

最後の方になると、お客さんは、思い思いのスタイルでくつろぎ始める。人垣が無くなったことで、ボクの位置からも、窓の外がよく見えた。

音と振動がボクに届くより速く、夜空全体が明るくなり、無数の光の束が窓の向こうに広がった。それが幾重にも重なる。重なった光は、ほどなくして、空しく消え去った・・・

ボクは花火というものを、理解した。

3夜|潮風よ、また会おう

お姉ちゃんとパパさんは、冷戦状態に突入した。

お姉ちゃんの当たりは次第に強くなり、今ではほとんど口をきこうとしない。昔からの仲の良さを知っているボクからすると、居た堪れなくて仕方がない・・・
でも最近では、パパさんの機嫌の方がむしろ悪いくらいで、二人してピリピリしている間で、ボクはどう振る舞えばよいのだろうか・・・

もっともパパさんの機嫌が悪いのは、誰彼構わずといったところがある。それがママさんにも伝染して、結局ボクとノハラちゃんだけ被害を受けたりするのだ。

ボクが思うのに、パパさんのお酒が悪いのだ。ひどく酔っぱらうのは止めた方が良い・・・ボクだって、そんなパパさんを見るのは悲しいのである・・・

この街に来て何回目かの花火大会のパーティでのことだ。
いつもの通りパーティは大盛り上がりだった。ところが急な用事だと言って、パパさんの姿が途中で消えた。自分の部屋にこもってパソコンとにらめっこしているようなのだ。
花火大会も終わりに近くなったころ、パパさんは部屋から出てきた。顔色が悪い・・・。ボクは心配したが、周りはワイワイ、ガヤガヤ騒がしく、誰も気が付かない。
よせばよいのにパパさんは、ソファーに深く腰掛けて、強いお酒を飲み始めた。そして案の定、酔っぱらって、そのまま横になってしまった。
お客さんが帰った後、ママさんの雷が落ちた。でもパパさんは動じずに、薄ら笑いを浮かべながら反撃を始めた。

――ひどい喧嘩が起きる前触れかもしれない・・・

ボクは心配して、そうならないようパパさんのすぐそばに身を寄せた。

「よう!ロン!心配してくれるのか?お前だけだよ、そんなのは」
パパさんは相変わらず、グラスを持ったママ、ヘラヘラとした笑いを浮かべている。

するとお姉ちゃんが憤然と、ボクのリードを引っ張った。

「ロン、酔っ払いの相手なんかしないで、あっち行こう」

その背中に向けてパパさんが言った。

「悪いな。酔っぱらいで。でも飲みたくもなるじゃないか。次こそ挽回するさ。一発逆転、大儲けだ。そうしたら、最上階に引っ越して、もっと珍しい犬でも飼おうな!」

お姉ちゃんの足が止まった。そして睨みつけた。

「ロンで、いい!わたしは、ロンがいいんだよ!」

ボクはお姉ちゃんの部屋に連れ込まれた。
その晩、ボクは久しぶりにお姉ちゃんとベッドで一緒に寝た。ボクの知っている、懐かしい昔のお姉ちゃんの匂いがそこにはあった。


家の中の重苦しい雰囲気がそれからも続いた。むしろ、どんどん悪くなっているようにも思えた。詳しくは知らないが、原因はパパさんにあるようだった。

とある日の朝のことだ。お姉ちゃんとノハラちゃんを学校に送り出した後のこと、それを待っていたかのように、ママさんとパパさんがかつてないほどの大喧嘩をした。さんざん言い争った後、パパさんはテーブルの上の食器を手で払った。床に食器が散乱した。
そして自動車のキーを握ると、力一杯大きな音を立て玄関のドアを閉め、だまってどこかに出かけてしまった。

残されたママさんは、床に落ちた食器を片付けていたが、その場でしゃがんだママ動かなくなった・・・ボクは心配でたまらなくなり駆け寄った。それでも動こうとしない・・・見るとママさんの目から涙が溢れていた。そして両手で顔を覆うと、すすり泣き始めた・・・

かつてない出来事に、ボクはどうしたらよいか分からず、オロオロするばかりだった。我に返って、一生懸命ママさんを慰めてみても、ママさんの涙が止まることはなかった・・・

その事は、お姉ちゃんもノハラちゃんも知らなかったが、何かを薄々感じ取っているようだった。
そのせいなのか、ママさん、お姉ちゃん、ノハラちゃんの3人は肩を寄せ合っているようにも感じられた。

パパさんは家にいる時間が、めっきり少なくなった。ボクは心配した。このままでは、パパさんが、完全に蚊帳の外になってしまうではないか。

案の定、休日の外出にパパさんの姿はない。このときも、レディ3人とボクとでランチを食べた。ボクも好物のオヤツをご相伴した。

すっかり顔馴染みになった、例の小型犬が話しかけてきた。
少し歳をとった分、体が丸くなったが、性格まで丸くなったわけでないらしい。彼女の話はどこか尖がっている。

彼女が言うのには、最上階に住んでいた、あの大型犬の姿を最近見ないそうだ。一説には、御主人様と一緒に、逃げるようにどこかに引っ越してしまったという噂があると言っていた。
だとすると、どうりで最近姿をめっきり見かけなくなったわけだ。いつも威張っていて、少し面倒くさいところがあったが、いざ会えなくなると少し寂しい。少なくとも、お別れの挨拶くらいしたかった・・・


ある日のこと、パパさんが早い時間に帰ってきた。ここのところ、家にいないことも多かったため、ボクは大層驚いた。しかも実に久しぶりに、ボクを散歩に連れ出してくれたではないか。
そういえば、昔こんなことがあったような気がした。思い出した。あのときは確か、ボクが真っ逆さまにベランダから落っこちたといって、大騒ぎになったのだ。

――今度は大丈夫だろうか・・・

ボクは心配になり、パパさんの顔を見上げた。それを見て、パパさんは「どうした?」と微笑んだ。それはボクの知っている、昔の優しいパパさんの顔だった。

パパさんは遠出して、ボクを散歩道の外れまで連れて行ってくれた。そこは、この潮風が吹く海辺の街で、一番大きな夕日がみられる場所なのだ。沈みゆく夕日を、ボクたちは二人して、黙って眺めつづけた。

どうやらこの日パパさんは、何かを決心したようだった。それからというもの、パパさんはママさんと夜ごと、真剣な顔で、何度も何度も話し込んだ。
ボクはパパさんの変化に驚いた。昔のパパさんに、すっかり戻っていた。穏やかで、優しいパパさんに・・・

でもママさんは、そうではなかった。パパさんと話し合うたびに、感情が激しく揺れ動いている・・・ボクにはそれが、よくわかった。

丁度このころ、お姉ちゃんは大変な時期だった。受験と言うものの真っただ中だったのだ。随分前から自分の部屋にこもって、何やら一生懸命、机に噛り付いていることがあったが、最近はほとんど部屋から出てこない。

一家はそれを、静かに見守っていた。そして、その一大事が終わったと思われるころ、お姉ちゃんがママさんとパパさんに何かを報告した。ママさんは、おめでとうと言って、お姉ちゃんをハグした。

少しして、久しぶりの家族会議が開かれた。その席で話を聞いて、お姉ちゃんとノハラちゃんは動揺した。そして、憤った・・・ノハラちゃんは最後に、泣いた・・・
ボクたちの歯車は、どこかで狂い始めてしまった・・・

こうしてボクたちは、この家を引き払い、二度目の引っ越しをすることになったのである。

4夜|水辺の犬


そしてボクは今、潮風の吹くことのない、別の街で暮らしている。しかし、ここにも水辺はある。ボクはママさんと並んで、その水辺に沿った散歩道を歩く。足の裏に感じる土の感触が心地よい。下草なのか、芝生なのか分からないが、緑も豊かであった。公園らしき広場もある。
数日前の雨の名残りが、水たまりとして残っている。晴れた空が水面に映り込む。そこを、流れる雲の姿が横切った。

羽音がして水鳥が飛び立った。遠くではカラスが鳴いている。ここにはカラスがいるのだ。

ここがどこなのかは、歳をとった日本犬が教えてくれた。
ここは、都会のハズレにある、大きな河のほとりなのだ。

ボクはママさんと一緒に、カフェのテラスに座っていた。河のほとりの小高い丘の上に、カフェはあった。
昼下がりである。テラス席は談笑する人たちでにぎわっていた。運よく空いている席が見つかった。ママさんがコーヒーを注文しにカウンターに行っている間、ボクは留守番をしていた。

「始めて見る顔だね。引っ越してきたのかい?」

その日本犬は足が不自由なのか、カートに乗っていた。

「はい。潮風の吹く、海の見える街から引っ越してきました」

ボクはそう返事をしたが、日本犬は首をひねるばかりだ。あの街のこと、そして潮風と海の関係を説明しても、一向に理解してもらえる気がしない。それはそうだろう。あの街のことを説明するのは難しい。とりわけ潮風の匂いなど、何と表現すればよいのだろうか。海と呼ばれるあの水面の広さなど、何をもって伝えるべきか。

ボクは、あの街のことを説明するのを諦めた。しかし、日本犬は何も気にしていないようだ。

「この街もまんざら悪くないはずだよ。頑張りなさい」と、優しそうに目を細めた。


新しい家は、エレベーターのないビルの2階にあった。
これまでの、どの家よりも狭かった。しかし、これで十分なのだ。
何しろ、ここに暮らすのは、ママさんとノハラちゃん、そしてボクの3人だけなのだから。

お姉ちゃんは受験が終わり、遠いところにある学校に通うため、家を出ることになった。皆の引っ越しの手伝いが済んだら自分の番だと言っていた。

「一人暮らし、羨ましいだろ!」

ノハラちゃんに自慢はしていても、強がりのようにしか思えなかった。

パパさんも引っ越しを手伝った。しかし、その時限りのことだった。ボクはそれからの、パパさんの行方を知らない・・・旅行だろうか、ドライブだろうか、それとも全く違うのだろうか・・・でも、ドライブということはあるまい。あの大きな自動車は、とっくに誰かの手に渡ってしまったのだから。

それほど多くない段ボール箱を開け終わると、皆はテーブルを囲んで、コンビニで買ったお弁当を食べた。

「節約しないとね。貯金、減っちゃうから」
「大丈夫なの?」
「へっちゃら、ヒナタの学費くらい。ノハラもね。贅沢しないし、バリバリ働くから。だからしっかり勉強してよ。落第したら承知しないわよ」

ママさんは明るく振る舞っている。でもボクにはわかる。ママさんの不安と寂しさを・・・


実はその後しばらくして、ママさんとノハラちゃんと一緒に、パパさんに会ったことがあったのだ。
夕方のことだ。ノハラちゃんの学校が終わるのを待って、ボクは駅近くのレストランに連れてこられた。そこには、パパさんが待っていた。
「元気だったか?」と、パパさんはボクの頭を撫でた。ボクは嬉しさのあまり、パパさんの顔を舐めまわした。

「大丈夫なの?」
「男一人が暮らすくらい、どうにでもなる」
「でも借金が・・・」
「資産価値、上がったくらいだよ。タワマン様様だ。おかげで随分と楽になった」

ママさんが「本当に?」と言うと、「君たちに迷惑かける気はないよ」とパパさんは寂しそうに答えた。

二人が話を打ち切った。学校帰りのノハラちゃんが店に入ってきたのだ。もうランドセルは背負っていない。背も伸びた。外で見る制服姿のノハラちゃんは、大人びて見えた。

物静かな食事会だった。久しぶりにパパさんと一緒の時間を過ごせたのは嬉しい。しかし全員が遠慮しているようにも思えた。

そして食事が済むとパパさんは、一人だけ別の方向に帰って行った。


今度の家には小ぢんまりとしたベランダがあった。しかしボクは出入りを禁止されている。家の中で大きな声を出しても叱られることもある。ボクはここでは、目立ってはいけないようだ。
ボクは歳をとったし、昔ほど体力もない。張り切る場面も稀なのだが、少しでもはしゃぐとママさんは困った様子である。
神経質にもなっているようだ。ボクがストレスの原因なのだろうか・・・だとしたら、ごめんなさい・・・

ママさんは新しい仕事が見つかったそうだ。

「夏休み、終了!来月から二学期!やっとだよ」
「何よ、それ!」
「長い夏休みだったな・・・社会復帰、できるかな」
「そうでないと困る!」

ノハラちゃんはそう言ってグーパンチを差し出した。ママさんも同じようにしてそれを受けた。ボクたちのする、鼻挨拶のような仕草だった。


ママさんが新しい仕事を始めるとき、前祝いを兼ねてレストランにでも行こうということになった。しかしノハラちゃんが、「ロンも一緒にお祝いしよう!」と言いだした。休日の少し遅い午後である。二人とも、少しのんびりとして、寝過ごしてしまったようだ。結局ボクたちは駅地下で買ったデリを公園のベンチで広げて遅めのランチをとった。

その後、ボクのストレス発散を兼ねて、かなり遠くまで、散歩道を河に沿って歩き続けた。途中、大きな橋の下を二つも三つも通り、その間、ノハラちゃんは河辺の風景をバックに、ボクとママさんの写真をスマホで撮り続けた。

気が付くと日が傾きかけていた。帰り道、ヘトヘトになったノハラちゃんがスイーツを食べたいと言いだしたので、河のほとりの丘の上に立つ馴染のカフェに立ち寄った。

いつの間にかここの店は、ママさんのお気に入りになっていた。ノハラちゃんが学校の間、ママさんはここで、コーヒー1杯か2杯で長い時間粘って、履歴書やら書類やらを書いていた。時にはスマホをテーブルに固定して、ミーティングとかいうのに夢中になっていることもあった。

ボクはその間、テラス席のテーブルの足元で、じっとママさんを見守りながら、目の前を通り過ぎる、大小さまざまな犬たちとアイコンタクトを交わしていた。

この日もいつものように、テラス席に座ろうと思ったが、休日だったこともあり、あいにくと店は込み合っていた。
諦めて帰りかけると、「詰めるので、座りますか?」と男性が声をかけた。膝の上に小さな洋犬を抱いている。
その男性は軽く挨拶をすると、テーブルの上パソコンを横によけた。
ママさんも「どうも」と言って挨拶をした。

「知り合い?」とノハラちゃんがママさんに聞くと、男性が横から「犬友です!」と明るく答えた。

結局ボクたちは相席をさせてもらった。
二人がカンターに並んで注文している間、ボクのリードを男性が預かってくれた。洋犬も膝の上から地面に降ろされた。ボクはその洋犬の鼻先に挨拶をした。彼女の名前はピッピといった。
ママさんと男性が「犬友」というくらいなので、ピッピとは何度か目の挨拶になる。ママさんがこのカフェを利用するとき、それなりの頻度でボクとピッピは隣り合わせになり、挨拶を交わしている。

はじめて挨拶をしたとき、ピッピは自己紹介を兼ねて男性のことを語ってくれた。

ピッピによれば、ピッピの御主人様は男性のお母さんであり、だからピッピと男性は兄妹なのだという。

「だからあの人はアタシのお兄さん!」

それなので、ボクもピッピに習って、その男性をお兄さんと呼ぶことにした。

ピッピは、自分が寂しい犬だと言っていた。
「お母さん、家にいないの・・・どこに行ったのかな・・・早く帰ってくれば良いのに・・・」

だから今、お兄さんがピッピの飼い主だ。そしてお母さんはこれからも、ずっとピッピの御主人様であり続けるという。お兄さんとおかあさんは親子であり、壁一枚隔てた隣同士で住んでいる。それなので、お母さんが帰ってくれば、すぐにわかるーーピッピは胸を張ってそういった。


ピッピが言うのには、今日もお兄さんと一緒に夕日を見るためこの店に来たのだが、ボクに会えて嬉しいそうだ。そう言われてボクも、悪い気がしなかった。

ボクたちが話し込んでいると、ママさんとノハラちゃんが、マキアートとコーヒー、そしてスイーツのトレイを手に戻ってきた。
そしてノハラちゃんはボクとピッピと見て、「本当だ、ロンが珍しくモテてる!」と驚いたような声を上げた。

「すみません、お待たせして」

ママさんはそう言って席に着いた。ノハラちゃんはかしこまっていたが、促されてお兄さんに挨拶をした。

「初めまして。娘のノハラです。さっき並んでいるとき、聞きました。母が御世話になっています」

御世話なんてとんでもない、とお兄さんは言いながら、ピッピを膝に抱き上げて、「こちらこそ宜しく!」と挨拶する真似をさせた。
ノハラちゃんが笑顔になった。

「ヨークシャテリア?」ノハラちゃんが聞くと、お兄さんは「そう!ヨークシャテリア」と言ってピッピを手渡した。

「小さくて、可愛い!」

ノハラちゃんはピッピ弄繰り回した。ピッピも満更ではなさそうだ。ボクはその様子をテーブルの下で見守っていた。

「お母さんの犬なの?」
「うん、母は死んじゃったけどね」
「ごめんなさい・・・」
――構わないよ!と言いながら、お兄さんは笑った。

「4年前、って仰ってましたよね」
「親一人子一人だったから・・・寂しいものです・・・ピッピも、同じ。寂しい者同士、4年間の同居生活です」

ノハラちゃんは話を聞きながら、ピッピの両前足を持って万歳の恰好をさせた。

「母もそうやって、よくオモチャにしてました・・・」
「二世帯住宅に同居されてたんですよね」
「同居といっても、仕事柄留守が多くて・・・」

「出版のお仕事で、今は作家さんなの」ママさんが説明した。
「名ばかりです。実体は駆け出しの中年フリーライターですよ」
お兄さんは、そう言って苦笑した。


ママさんはお兄さんとの話に夢中である。ノハラちゃんは膝の上にピッピを乗せながら、スマホを弄っている。

「良かったですね、早くに仕事が決まって」
「おかげ様で。これからが大変ですけれど・・」
「ボクもフリーランス早々、色と々ありました・・・」
――お互い頑張りましょう!とお兄さんは微笑んだ。


冬の日暮れは早い。西の空が次第に染まり始めた。
風も強まった。すると突然、ノハラちゃんが声を上げた。

「シャボン玉?」

指を差した方から、丸い物体が飛んでくる。物体といっても、リンゴやスイカのような実体があるわけではなさそうだ。薄い皮で出来ているのか、周囲の景色が透けて見えている。その半透明の物体のようなものが、フワフワと漂うように、テラスに座るボクたちの上空を通過した。
お兄さんとママさんの顔を見合わせた。

「もうそんな時間か・・・行ってみます?」
「例のパフォーマンスですか?」
「そう、例のパフォーマンス!」

そのパフォーマンスというものを見物しに、ボクたちは、カフェのすぐ近くにある階段に向かった。階段を下れば、そこが公園である。パフォーマンスはそこで行われているのだ。

階段は、若いカップルの格好のデートスポットになっていた。幾組ものカップルがドリンクのカップを脇に置き、思い思いに語らっている。
すると一組のカップルに向かって、先ほどとは比べものにならないほど大きなシャボン玉が飛んできた。女の子が手を差し伸べると、大きなシャボン玉は弾けて消えた。

公園ではパフォーマーの男性が、長くしなやかな竿を振っていた。ゆっくりと、しなりながら振られる竿の先には、糸のようなもので作られた輪が付いており、その中から、魔法のように大きなシャボン玉が、次々と生まれるのである。

「綺麗!」

真っ先に階段に着いたノハラちゃんが歓声を上げた。遅れてママさんとお兄さんも追いついた。そして足を止めて、シャボン玉が次々と生まれる様子に見入った。

玉の大きさは、ピッピどころかボクすらも、中にすっぽりと納まるほどである。かと思うと、小さなシャボン玉もあったりする。
大小のシャボン玉は、まるで親子のように並んで飛んでいたが、子供のシャボン玉だけが高く舞い上がり、やがて風にあおられて、ボクたちのいたカフェの方まで飛んで行った。

大きなシャボン玉はというと、風に乗ってユラユラと、大人の背丈ぐらいの高さで、空中を漂うようにして夕日の方角に飛んでいく。不規則に形を変えながら飛ぶシャボン玉に夕日の光が透けて見える。

風向きが変わった。公園に集まった子供たちが、一斉にシャボン玉を追いかけ始めた。子供たちの手の届くか届かないかの距離を、じらすようにゆっくり飛び続ける。そして手が届いた瞬間、シャボン玉が弾けた。周囲は歓声に包まれた。

ノハラちゃんは我慢ができなくなったのか、ボクのリードをお兄さんに渡して、子供たちに交じって自分も走り出した。

「もう。中学生にもなって・・」ママさんがつぶやいた。

夕日に照らされているからばかりではないだろう。ノハラちゃんの笑顔は輝いていた。

「今日は親子水入らずのところ、申し訳ありませんでした」
お兄さんはノハラちゃんを目で追いながら言った。ママさんは首を横に振った。

「童謡のシャボン玉の歌、亡くなった幼い子供のことを思って作ったという説があるみたいですよ」
そう言うとお兄さんは、「屋根まで飛んで壊れて消えた・・・」と歌の一節を口ずさんだ。

「そう思うと、悲しい歌ですね・・・」
「なんで人は、死ぬんですかね・・・」お兄さんは遠くを見つめた。

「お母さまのこと、お寂しいですね・・・」
「4年たっても、です・・・」
「愛されていらしたんですね・・・」

お兄さんは小さく呟いた。
ボクの耳には「ありがとうございます」と聞こえた。

風向きがまた変わった。その風に乗って、一段と大きなシャボン玉がゆっくりとノハラちゃんの頭上を通り過ぎた。
ノハラちゃんは両手を広げて、どこまでもそれを追い続けた。

ノハラちゃんの笑顔が夕日に映えた。
こんな光景を、いつか見たことがあったーー潮風の吹く海辺で、五人で乾杯をしたあの日、テーブルの上のグラスの中の泡を夕日が眩しいくらいに照らしていた。そして、ソルティドッグがテーブルに運ばれると、潮風に吹かれるボクのことを見ながら、ノハラちゃんは嬉しそうに笑ったのだ。

ボクの目の前を、風に乗って影が通り過ぎた。カラスだった。カラスは空中で旋回すると電信柱の上に止まった。
眼下の何かを見ているようだ。視線の先には、おばあさんとおじいさんが仲良く夕日に染まりながら、シャボン玉のパフォーマンスを見物していた。
カラスはそれを見守っているようだった。
あのカラスはおそらく、ボクの知っているカラスではあるまい。しかしそれはそれで、構わないだろうと、ボクは思った。

終夜|主人語り(あるじがたり)

1話|協定の締結


ピッピという名前の、そのヨークシャテリアの女の子は、リボンを結った頭をボクのお腹に委ねながら、遊び疲れ果てて寝息を立てていた。
ボクは動こうにも動けなくなり困っていたが、ピッピの体温を感じている内に、ウトウトと眠ってしてしまった。

すると玄関でチャイムが鳴った。
ボクは上半身を起こした。ピッピが床に転げ落ちた。

この家の主人であるお兄さんは、パソコンを打つ手を止めると、椅子から立ち上がった。

お兄さんの後を追って、ボクは玄関に向かった。ドアが開いた。そこにはボクの御主人様であるママさんの姿があった。

「ただいま!お利口にしてた?」

ボクは尻尾を振りながら走り寄った。ピッピも後を追ってきた。ママさんは、ボクとピッピを交互に撫でた。

「お利口にしてましたよ!」

ボクの代わりにお兄さんが応えてくれた。
「いつも、スミマセン!」――ママさんは頭を下げた。

「とんでもない!いつでも、どうぞ!ピッピも喜んでる!」――そう言いながら、お兄さんは空になったタッパーをママさんに手渡した。

今日の朝、ボクを預かってもらうとき、ママさんが渡したタッパーだった。中には、ママさん手作りの料理が入っていた。昼ご飯のとき、お兄さんはタッパーの中身をお皿に盛って美味しそうに食べていた。

「御馳走様でした。母が死んでから家庭料理なんてご無沙汰で、ありがたい限りです」
「だったら、いいんですが。作家の先生にペットシッターの真似、させてしまい、申し訳なくって・・・」
「協定なんだから、気にしないでください!」

そうなのだ。ボクたち一家とお兄さんは協定を結んでいる。
それは概ね、ピッピとボクに関しての取り決めだった。

申し遅れたが、ボクの名前はロンという。性別は男、年齢は人間に直すと結構な高齢だ。
現在は、ママさんと末の妹のノハラちゃんと一緒に住んでいる。お姉ちゃんのヒナタちゃんは、遠い学校に通うため家を離れているが、いよいよ今度、こちらに帰ってくる!

犬の種類で言うと、中型に分類されるが、何故だか標準より体が大きい。実はそのことが、ずいぶんと長いこと、ママさんの頭痛のタネになっていた。ボクが立てる生活音が、前の大家さんからのクレームの原因になっていたのだ。ボクはそのことが申し訳なくてしかたがなかった・・・

前の大家さんからも、ママさんは連日のようにボクの話を蒸し返されて、鬱々とした日々を送っていた。ある晩も、なにやらお小言をもらっていたようだ・・・

そして一晩立った朝、行きつけのカフェで、ため息をついていたというわけだ。ボクもそれで、テーブルの下で、肩を落としていた次第である。

「珍しいですね。こんな早い時間に」
その日何と偶然にも、お兄さんがカフェの前を通りかかった。手にはピッピのリードを握っている。ボクを見てピッピが走り寄ってきた。朝早いこともあり、テラス席もガラガラである。お兄さんはピッピをママさんに預けると、モーニングのセットを注文しにカウンターに並んだ。

二人はカフェ友であり、犬友でもある。ボクとピッピが仲を取り持った節がある。

「今日は在宅ワークなので、気分転換にと思いまして」
「気分転換ね・・・訳アリなわけですね。どうしましたか?」

ママさんは事の次第を話した。

「実家に戻ろうかとも考えたんですが・・・ノハラの学校のこともあるし・・・」
「中型犬可の物件だったんでしょ?」
「何でも隣の住民の方が、思ったよりも神経質らしくて・・・」
「そんな理不尽な話、無視していいですよ!」
「ちょっと怖そうな人なので大家さんも逆らえないらしく・・・」

申し訳なさすぎて、ボクは体をさらに小さくした。

――だったら引っ越すしかない。と誰もが思うだろう。しかし、「あんな条件の良い物件、滅多に無いんです・・・」と切り返されると返す言葉がない・・・・

ところが、お兄さんは意外な話をし始めた。

「それにしても不思議ですね」
「何がですか?」
「意味ある偶然って、信じます?ボクが、今日、朝からここにいるの、不思議に思いませんか?」

そうなのだ。お兄さんここ来るのは、大抵の場合、夕方と相場が決まっている。ピッピも今日は、「久しぶりに朝から散歩で眠い」と言っているくらいである。

「昨日、取引先から連絡があって、大きな案件を失注したんです・・・これからは仕事を、生成AIにお願いするそうです!酷いですよね!今風といえば今風だけど・・・」

――フリーランスの悲哀ですかね・・・お兄さんは諦め顔で言うとコーヒーカップを置いた。

「それで、突然に経済的に不安になってね。気がついたら朝で、ここに来る途中、道々、頭を整理しながら考えていたんです。でも、お話を伺って踏ん切りがつきました」

お兄さんはママさんの方に向き直った。
「我が家の半分、借りて頂けませんか?」

ママさんは、「確か二世帯住宅でしたよね?」と聞き直した。お兄さんは頷いた。

「母の遺品の整理もできていません。半分空けるのにも少し時間がかかりそうですが・・・」
「よろしいんですか?」
「このタイミングで思い切らないと、一生ゴミ屋敷のママかもしれない・・・母が背中を押してくれたのかも知れません」

連絡先の交換が澄むと、お兄さんは別れ際、「まずは不動産屋さんに当たってみます」と言いながら、思い出したように振り返った。

「一つだけ、条件として検討して頂けないですか?」
――何でしょう?とママさんが尋ねた。

「もしぼくに何かがあったときは、ピッピを引き取ってもらえませんか」

お兄さんは真顔である。

「ぼくには母以外、身寄りがありません。今は天涯孤独です。今さら死ぬのは怖くないけれど、ピッピを残すことだけが心配です・・・もちろん何があっても這ってでも帰ります。絶対に生きて見せます。でも運命って理不尽ですから・・・よかったら考えてみてください。その代わり、何かのときは、ぼくにロンの面倒を見させてください!」

2話|ピッピは語る


これがボクたちが交わした協定の中身である。その上で、御想像の通り、ボクたち一家は今、お兄さんと隣同士で暮らしている。

遺品というモノの整理は大変だったらしく時間がかかったが、その分引っ越し準備に猶予ができた。とはいうモノの、その間、ママさんは前の大家さんに謝り続けることなった・・・

しかも、遺品は半分しか整理できなかったようだ。お兄さんは、「思い出が多すぎて捨てきれなかった・・」と言っていた。

仕方がないので、お兄さんがお母さんの家の下半分に引っ越して、お兄さんが空けてくれた家にボクたちが入ることになった。

新しい家は、見た目は一棟なのに、玄関が別にあり、中はきっちりと二世帯に分かれていた。

ベランダは無かったが、庭がある。庭木も生えていてマーキングしやすい。塀の向こうにある二階建ての隣家の窓辺には、白黒マダラの子猫たちが陣取り、ボクたちの一挙一動をじっと見つめている。

庭に降りると、土の良い香りがした。ボクは一所懸命嗅いで回り、とりあえずマーキングを施した。すると、庭に面したもう一つのドアから、お兄さんと一緒にピッピが現れて、ボクがマーキングした跡を不思議そうに確認していた。

ちなみに庭にはその後、ノハラちゃんの強いリクエストで、両家の境界線としてパーティションが設けられた。ただし下に隙間があったため、ピッピの越境を防ぐことはできなかった。


協定は早速に発動した。といってもピッピが我が家に来ることは稀で、大抵はボクがこうしてお兄さんの家に邪魔している。

始めの内はママさんも遠慮がちだったが、朝仕事に出かけるとき「よかったらロン、預かりますよ」と親切に言ってくれるので、だんだんと好意に甘えるようになり、結局ボクはお兄さんの仕事部屋に入り浸り状態である。

ママさんも肩の荷が一つ降りたようで喜んでいる。しかし、最近ノハラちゃんの態度が微妙なのだ・・・

「あんまり身内扱いするの、どうかな」とか、「親しき中にも礼儀あり、だと思うけど」だとか、お兄さんの件で、事あるごとにママさんをけん制するようになった。そのことが、気がかりといえば、気がかりである・・・

ともあれボクとしては、毎日のようにピッピと情報交換ができるのは、ありがたいことだ。

今日もお兄さんが仕事をしている足元で、ボクはピッピの話に耳を傾ける。話のほとんどは、お母さんの思い出話だった。ピッピはお母さんの話を、誰かに聞いて欲しいのだ・・・
一人での留守番の時は誰にも話ができず寂しいと言っていた。でも、今はボクもいるしお兄さんもいるので、にぎやかだし、いつでも思い出を語ることできて嬉しいそうだ!
ボクは言った。

「お母さんと早く会えるといいね!」

ピッピは嬉しそうに尻尾を振った。

3話|お姉ちゃんの帰還


お姉ちゃんと一緒に暮らせる日が来た!ボクの尻尾はフル回転した!

お姉ちゃんは段ボール箱の整理を早々に終わらせた。これからはミニマリストを目指すと息巻いている。終わると、久しぶりの家庭料理を楽しんで、お風呂でリラックスしたということだ。

ボクはノハラちゃんの部屋でまったりとくつろいでいた。するとノックの音がした。お姉ちゃんだった。手には缶ビールとペットボトルのジュースを持っている。
お姉ちゃんは「お酒は大人になってから!」と茶化しながらペットボトルをノハラちゃんに渡し、自分はビールの缶を開けた。ノハラちゃんは「お酒なんか、嫌い・・・」と口を尖らせた。

お姉ちゃんはノハラちゃんと一緒にベッドに腰かけた。

「ママから聞いたよ。先生のこと、嫌い?」
「嫌いってわけじゃないよ・・・」
「ノハラの心配、分かるけどね。そうはならないと思うよ。多分だけど、悪い人じゃないと思うよ」
「何でそんなことわかるの?」

ノハラちゃんが睨んだ。ボクは喧嘩が始まらないかヒヤヒヤした。

「先生が言ってたよ。君たちは、お母さんがいて、いいね。
大事にしなさい、ボクみたいに後悔しないように、って」
「どこかで会ったの?」
「冬休みに、こっち帰った時。公園で偶然会った。ピッピ連れててさ、夕日をバックに仕事だって!ロマンチストだよね」

ノハラちゃんは、掛け布団で体を覆いながら黙って話を聞いていた。

「丁度そのとき、犬を連れたおばあさんが通りかかったの。そうしたら、なんて言ったと思う?あの犬が羨ましいって!御主人様がいるからだって!」
「何よ、それ?」
「御主人を守っている自分のこと、絶対に犬は誇らしく思っているはずだって。それに共感するそうだよ。傑作だよね」

――ロンもそうなの?わたしのこと、自慢に思ってくれる?
お姉ちゃんはそう言ってボクの体を重そうに抱き上げた。

4話|食事会の夜


それから少しして、お姉ちゃんから提案があった。自分の引っ越しのお祝いを兼ねて、お兄さんと食事会でもどうか、というのだ。

「自分の引越し祝いを強要するなんて、厚かましいい」とママさんもノハラちゃんも呆れたが、お姉ちゃんは気にする素振りもない。
しかも場所はどうするのかを聞かれると、「先生の家でどうか」という。「正気?」ママさんは呆れ果てている。

だが、押し切られる形で、お姉ちゃんが直談判することになった。ボクは半信半疑で成り行きを見守っていたが、何と交渉をまとめてしまった。

「女性だけの家に上がるわけにはいかないーーなんて、律儀を通り越して、古風だよね」
交渉が終わって、お姉ちゃんは、スマし顔で、そう言った。
お姉ちゃんは、やるときはやる人だった。


実のところ、お姉ちゃんはお兄さんの仕事に興味津々なのである。

「第一志望、雑誌社だったんだけど、案の定全滅でさ。トボトボ実家に帰ってみたら、何と大家さんが、元編集で作家の先生っていうじゃない!これって運命以外の何物でもないと思いませんか!」

食事会当日、お姉ちゃんとノハラちゃんは朝からショッピングモールに買い出しに出かけた。ママさんは家で料理作りの真最中だ。

準備万端整うと、ボクたちはお兄さん家のチャイムを鳴らした。ピッピが元気よく出迎えてくれた。

先ほどは気が付かなかったが、庭を見ると、二階建て家の窓辺には、気が優しそうな黒猫と、澄ました顔の白猫が、二匹並んでこちらを見ている。白黒マダラ猫の親である。子供たちは、どこかで遊んでいるのか、今日のところは姿が見えなかった。

お姉ちゃんは物珍し気にお兄さんの仕事部屋を見渡した。

「あんまり普通で、驚いたんじゃない?」
「編集の人がここにきて、打ち合わせとか、するんですか?」
「テレビドラマの見過ぎ!」お兄さんは笑った。

ママさんは、食卓の用意を始めた。

「出来合いを盛り付けるだけですから」と言っているが、中々のボリュームである。おすそ分けはあるのだろうか・・・

お兄さんは、「これ会費」といってお姉ちゃんにポチ袋を渡した。「やっぱ、律儀!」とお姉ちゃんはノハラちゃんに耳打ちした。

ピッピは久しぶりに大勢のお客さんではしゃいでいたが、今はママさんがキッチンに立つ姿を熱心に見上げている。

「嬉しそうにしている・・・台所に人が立つなんて久々だから・・・」

そういうとお兄さんは棚のフォトスタンドを見つめた。

「優しそうなお母様ですね」ママさんが言った。
「一緒に撮った最後の写真なんです・・・」お兄さんは懐かし気に目を伏せた。


乾杯の音頭はお兄さんがとった。

「ヒナタがワガママを言って申し訳ありませんでした」
ママさんはグラスを置いて、頭を下げた。
「家族ぐるみで会おうって提案したのはこちらですから。いくら転職の相談といっても、年頃のお嬢さんと二人だけで会うのも、何なので」

それを聞いて「引越し祝いの話じゃなかったの!?」ノハラちゃんが目を剥いた。
「ヒナタ、あなたもう転職するつもりなの?」ママさんも呆れた。
「賑やかで楽しいな!」ピッピの尻尾が回転を始めた。


お兄さんはお姉ちゃんから質問攻めにあっている。

「編集とライティングって何が違うの?」
「編集の極意は引き算と割り算。記者はとにかく取材かな。若い内は特に。タイパは無視するほうがいいよ。体力突かないから」
「無事、転職できるかな・・・」
「何度もチャレンジしなよ。若いんだから」
「何度もって、一回は落ちる前提?」・・・

ノハラちゃんは黙々と食べ続けている。時々お姉ちゃんのお皿にも手を伸ばしては、それをボクとピッピに分けてくれた。

「先生も転職組なの!?大変だった?」
お姉ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「異業種転職だからね、編集長が鬼で、毎日泣いてたよ!」
お姉ちゃんが悲鳴を上げた。

「取材とかあるんですか?」
今日初めてではないだろうか、ノハラちゃんがお兄さんに質問をした。

「もちろんあるよ。最近はオンラインが多いかな。でも泊りがけの地方取材も増やさないと。仕事の幅が狭まるから」
「そのときはピッピ、預かりますね」
ママさんがそう言うと、お兄さんは「助かります」と頭を下げた
ピッピがノハラちゃんの膝の上で、自分の名前を呼ばれたと勘違いした。
「そうしたらピッピと一緒に寝れるね!」ノハラちゃんの表情が一瞬だが和らいだ。


最後にカットされたフルーツがテーブルに出された。お姉ちゃんとノハラちゃんが朝一番に買いに行ったスペシャルメニューだ。

「フルーツなんて自分で買って食べないから!」とお兄さんは嬉しそうだった。

ボクはスイカのおこぼれに預かった。すると、「スイカなんかを犬が食べるんですか!?」とお兄さんがびっくりした。そして試しにピッピの目の前に差し出した。
一口かじってみると、美味しかったのか、ピッピはものすごい形相で残りのスイカにむしゃぶりついて、皆を笑わせた。

「こんな美味しいの、昔から食べてたなんて、ずるい!」とピッピはボクに向かって文句を言った。

5話|ボクの主人語り(あるじがたり)


夜も更けてきた。思いのほか長居をしたようだ。そろそろお開きの時間である。
片付けが始まとうとしたとき、お姉ちゃんがノハラちゃんを小突いた。

「アンタ、聞きたいこと、あるんでしょ?」
しかしノハラちゃんは無言である。

「スッキリしちゃえ!」
お姉ちゃんがハッパをかけた。ノハラちゃんがやっと口を開いた。

「先生は何で結婚しないの?」
ママさんは何かを言いかけたが、お兄さんは「気にしないで!」と言いながら、ノハラちゃんに向かって語り出した。

「大層な理由はないよ。恋愛感情が希薄なのかもしれないし、縁がなかったからかも知れないし、面倒臭かったからかも知れないしーーでも一番は他にやりたいことがあったからかも知れないね・・・」
「仕事?」ノハラちゃんは訊いた。

お兄さんは笑いながら答えた。

「犬になって、御主人様の自慢を語ること!」
「何、それ・・・」
「半分冗談で、半分本気」
「困ったな・・・」

ノハラちゃんは勢いをくじかれたように黙ってしまった。

「書かれるんですね。お母さまの事」ママさんが言った。
「詳しくは、企業秘密です。でもいずれ書きます。大切な思い出だから、ゆっくりと味わいながら」

お兄さんはノハラちゃんに向き直った。
「ボクからも聞いていい?お父さんはどんな方だったの?」
ノハラちゃんはママさんの顔を見た。ママさんは頷いた。

「悪い人じゃなかったです。酔っ払うと大変だったけれど。飲まないと優しかったし・・借金は作っちゃったけれど・・・」

ママさんが話を引き継いだ。

「ほんと、悪い人ではなかったです・・・でも弱い人でした。投資は怖いですね・・・実は、それだけでも、ないんですけれどね・・・今は、結婚はもう、こりごり」

ママさんがノハラちゃんに微笑みかけたように見えた。

「母が死んで思いました。かけがえの無い何かを失って、今が堪らきれなほど辛いと思うのは、昔が例えようもないほど幸せだったからだって・・・素敵なご家族だったんですね。娘さんたちを見れば、わかります」

お兄さんが優しい目をして言うと、ママさんは「ありがとうとざいます」と言って頭をさげた。


「そのままで。後は自分で片付けますから」というお兄さんを無視して、ママさんはお姉ちゃんとノハラちゃんに号令をかけた。お姉ちゃんは何気に張り切っている。色々とあって一番たくましくなったのはお姉ちゃんかもしれない。

ノハラちゃんはテーブルの係だった。ピッピを膝の上で寝かせながら仕事をしていたが、時々スマホ見てさぼっている。
するとノハラちゃんのスマホから通知音がした。スマホを盗み見てノハラちゃんが少しだけ大きな声を上げた。

「今度は何?」ママさんが聞きとがめると、ノハラちゃんは画面を差し出した。
「ひどい・・・」それを見たママさんは眉をしかめた。
お姉ちゃんも画面を覗き込んだ。
「ノハラ、あんた何検索しているのよ」
「違うよ。通知だよ。最近ヨークシャテリアのこと、よく検索してたからだよ・・・」
「ありえない・・・」兄さんも絶句すると、「あの国の人たちは、ヨークシャテリアが好きだから・・・」と言いながら、自分もパソコンで調べ始めた。

ノハラちゃんにもたらされたニュースは、遠い異国で戦争というものが起き、そこでヨークシャテリアたちが、それは悲惨な殺され方をしたというものだった。当然ながら、そこで暮らしていた大勢の御主人様たちも一緒に・・・

「こんなに、可愛い子たちを・・・」ノハラちゃんがピッピを抱きしめた。
「理不尽極まりない・・・ひどすぎる・・・」お兄さんはパソコンの画面を閉じた。

戦争というものをボクは知らない。見たこともなければ、知る由もない。ただ、仔犬のころ、森が見下ろせるマンションのベランダで、旅のカラスに聞いたことがある。

この都会では、縄張りを巡ってカラスと人間が毎日のように喧嘩をしている。カラスはその営みを戦争と呼んでいた。そして憤っていた。「人間と言うのは、本当に勝手な生き物だ」と。

でもボクは反発した。ボクの家族は皆、こんなに優しいではないか。それなのに、何故カラスにはそれほどまでに冷たい人間がいるのだろう。カラスとボクは何が違うのだろうか。

それとも、いずれボクも、カラスのように嫌われてしまう運命なのだろうか・・・

「そういえばノハラ、なんでヨークシャテリアのこと、検索してたの?」
「可愛いじゃない・・・ピッピ。女の子だし・・・」
「さては惚れたな!ロン、捨てられるぞ!」
「ロンは別!家族だもの!」
「私はロンがいい!だいぶ、おじいちゃんだけど!」

お兄さんが近づいてきてボク頭を撫でた。
「ロンは、いいな!おじいちゃんになっても、可愛がってもらえて!」

「また言ってる!」
ノハラちゃんとお姉ちゃんが顔を見合わせた。


ピッピはオシッコが終わると、ボクの懐に潜り込み、丸まったまま眠ってしまった。

「モテモテくん!」
お姉ちゃんが、悪そうな顔つきで冷やかした。

ピッピの体温を感じながら、ボクは思った。
ママさんも、お姉ちゃんも、ノハラちゃんも、お兄さんも、ピッピも、そして今はここにいないパパさんも、皆が元気でいれくれればよい。そして皆がずっと楽しければ、ボクもきっと嬉しいだろうと。


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