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「ショートカット癖」とどう向き合うか_仮説の手前 27

育休中、ありがたいことに知人・友人からちょくちょくお声がけいただき、朝のちょっとした時間を利用して、近所のカフェで雑談する機会がありました。

なんの目的やゴールを拵えずに話す雑談ですから、まぁ話はアチコチに飛びます。会議とも違って時間内に答えなんかを出す必要もないので、勝手な解釈を交えて話すわけです。その会話の中心にある言葉は「なんか」。「なんか」を枕詞にして、ああでもない、こうでもないと、Twitterでは呟けないであろうことを話すわけです。

とても楽しい時間ではあるのですが、話があまりにとっちらかるので帰り道では話した内容のほとんどを忘れていたりします。ただ一言二言身体の中に残っている言葉というのはあって、それを反芻しながら改めて自身の中で解釈を深めたり言語化を試みたりします。そんなことだから、雑談後は結構体力が削られます。まるで長距離をじっくり走った後の「筋肉痛」のようなしこりが頭に残ったりして。それが心地良くもあります。

と同時に思うんです。ふだんがあまりに「答え」に近すぎるのではないか、と。

SNSで絶賛されている映画を観に行っても、心を痛めるニュースが流れてきても、その時に感じた自身の感情は一旦脇に置いて、Twitterで関連の発信を検索して、その領域に詳しい専門家や、直面して逼迫した声を上げている人、タイムラインに並ぶ言葉たちの中から「正しそう」な言葉をチョイスして「答え合わせ」をする時間が増えました

もう少し前なら、とりあえず目の前の事象に対して、自身の中から沸き起こってきた感情をもとに、経験や知識を引っ張り出し言語化してアウトプットしていました。たぶんそれは僕だけではなく、多くの方がもっと自由に発話をしていたように思います。ただそれがいつからか(大きな転換はやはりコロナでしょう)、そのフローをショートカットして「答え合わせ」に時間を割くことの方に重きを置くようになっていると思うんです。「ショートカット癖」は個人的には結構大きい問題です。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

仮説の手前

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