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【読書メモ】『私の個人主義』(夏目漱石著)
1914年に漱石が学習院で行った講演録です。漱石の講演録の中では最も好きな作品の一つで、何度も読み返しています。学生に対して軽いノリで話し始めながら、最終的には人生訓に近しい重たいことをメッセージとして伝えるという漱石ならではの含蓄のある内容です。
探究すること
漱石はまず、自身が留学時代およびその後に帰国した後の苦労話をしながら、何かに対して丹念に長い時間をかけて取り組むことの重要性を話します。これもまた、説教くさくないのがいいのです。
何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。
現代においても、即効性のある知識やスキルの習得を煽るような宣伝文句を見ることは日常茶飯事です。そうした状況においても、漱石の至言を心して読んでみたいものです。
こだわりを糧に
では、探究する際の拠り所は何になるのでしょうか。
もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。
漱石は、こだわりがあるかどうかである、としています。無闇に何かに取り組むべし!というのではなく、こだわりをリトマス試験紙のようなものとして扱い、こだわってしまう何かがあるのであれば、それについては探究してみたらどうですか?と言ってくれているのです。
個性と自由と尊重
探究することは自由であり、その結果として個人の個性や専門性というものが培われるものなのでしょう。こうした個性と自由とを重視しながらも、漱石は、個人の自由の裏側には他者の自由の尊重があるとしています。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。
漱石の個人主義
他者の自由の尊重を重視することはすなわち、自由の背景には義務があるということを意味しています。
義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み潰されるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです。
こうして、自由と義務とを併せ持つ個人主義というものを漱石は主張しています。これが、書籍のタイトルにもなっている漱石にとっての「私の個人主義」ということなのでしょう。