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【読書メモ】1世紀以上前にジェイムズはつめ込み教育を批判していた!?:『ウィリアム・ジェイムズのことば』(岸本智典編著)
ジェイムズの教育に対する言葉の熱さには感動すらおぼえます。以下でも取り上げる『ウィリアム・ジェイムズ著作集Ⅰ 心理学についてーー教師と学生に語る』は読んだことがあるのですが、読んでいる最中にはあまり響かなかった記憶があります。。やはり本書のような一流の編著者による解説は読むべきなのでしょうね。
つめ込み教育批判
今から1世紀以上前の時点で、現代にも活きそうなつめ込み教育に対する痛烈な批判をジェイムズは述べていたようです。
つめ込みというやつは、試験の直前に猛烈な準備をおこなうことによって、いろいろなことを心に刻み込もうとするのです。けれどもこんなふうにして学んだことがらは、ほとんど連合を形成しません。ところが一方で、いろいろな違った日に、異なった前後関係のなかに幾度も出てきて、読んだり、そらんじたり、繰り返し参照したり、ほかのことと関連させて検討したりしたようなことがらは、うまく心の構造のなかに織り込まれるようになります。
本書を扱った前回のnoteで少し触れた連合(association)という考え方がここには登場します。学習とは既知の知識や経験との連合を形成することを意味するのに、つめ込みでは連合が生じないからダメなんだ、ということなのでしょう。
インスタントな学習コンテンツが現代でもわりとニーズがあるようですが、これはジェイムズの捉え方では学びとは言えないのかもしれません。一対一対応で丸暗記するようなものでは、他の知識と組み合わせたり、具体的な経験と紐づけて咀嚼するといったプロセスを伴わないからです。学びに向き合いたい方は、一足飛びに何かを得ようとするのではなく、ジェイムズの至言に耳を傾けると良いのかもしれません。
全体としての能力
ではジェイムズは学びの結果として獲得・強化する能力というものをどのように捉えていたのでしょうか。
ご安心ください。誰でもどれか心の基礎的能力が劣っていることを発見したからといって、ひどくがっかりする必要はけっしてないのです。人生においてものをいうのは、一緒になって作用している心の全体であって、どれがひとつの能力が劣っていても、ほかの能力の努力によって補うことができるのです。
一人ひとりに個性があるということは、一人ひとりで得手不得手が異なるということを意味しています。苦手な領域、つまり能力が比較劣位にあるものが存在することは普通のことです。自分が身につけていたい特定の能力が不十分な場合に私たちは落胆しがちですし、その能力を高く保有している他者を羨望の眼差しで見てしまいます。しかしジェイムズはそうする必要はないと述べているのですね。
ジェイムズは、見方を変えましょう、とか、気にする必要はない、といった精神論で誤魔化すようなことはしていません。自身が有している他の能力を発揮・強化できるように努力することで補うという発想をとっています。これも連合という概念を補助線として引くと理解できる着想なのではないでしょうか。
評価されやすい能力だけに着目しない!
こうして全体としてのゲシュタルト的な能力に着目することの重要性は、教育に携わる人々が特定の評価されやすい能力だけに着目しないように警鐘を鳴らしているとも言えます。
目に見えるものだけがすべてではない、目の前のものごとに即座に対応し解決できる力を持っている子どもだけが優れているというわけではない、長期的にしか発揮されない心の要素というものもあり、短期的に現れる心だけで判断せず全体を見るようにせよーー教育に携わる教師たちに向けてジェイムズが発したこれらのメッセージには、相手を変わりうる存在として、何かになりうる存在として眺める彼の姿勢やそうした姿勢を重要とする彼の思想が反映されています。
本書ではこのようなまとめをしてジェイムズの言葉を咀嚼してくれていて、教育に携わる一人として、とても心に響きます。
最後まで目を通していただき、ありがとうございました!