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【読書メモ】一即多、多即一としての実在に迫る第五章:『実在とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』(大熊玄著)

第三章と第四章のくどさ(失礼!)に少しモヤモヤしていたのですが、そこでの議論が第五章で解消されるような心地よさを感じます。仏教用語から西田が用いている「一即多、多即一」を通じて実在について語る大変読み応えのある章です。

実在とは動的なもの

「一即多、多即一」については最後に結論的にまとめるとして、乱暴に言ってしまえば、一とは統一性、多とは多様性と仮置きさせてください。存在は多様でありつつも、その多様なものを統一する動きと共にある、ということを西田は主張しています。つまり、実在においては「対立と統一が無限に続く」(168頁)という関係性を述べているのです。

これは、統一と多様という二つの概念を整理しているだけではありません。西田がすごいと個人的に思うのは、こうした二つの概念の関係性を基にダイナミクスを論じているところです。

西田にとって、すべての「生きているもの」は、単に一つだというだけではなく、そこに必ず無限の対立を含んでいて、それによって動き続け、無限の変化を生ずる能力を持ったものになります。
170頁

実在の「在」という字からは整的な印象を与えますが、動的なものとして実在を捉えている、ということをここでは理解しておけば良いでしょう。さらに、実在が動的であるということは、そのような存在の可塑性や発展可能性へと繋がることに着目するべきでしょう。対立と統一によるダイナミクスという実在という捉え方が、人という存在が有する発達や成長を意味するわけですね。

自由=自らに由る

このような対立と統一のダイナミズムについて、著者は、存在A、存在B、存在Cというものを仮に設定してさらに説明してくれています。これが、西田のわかりづらさをわかりやすくしてくださっていて大変ありがたいのです。なので少々長いのですが、そのまま引用します。

実在Aと実在Bの対立は、Aから見れば、「私Aは、自らの外側にあるBと対立している」という外的なものになりますが、その対立を成り立たせている共通の場Cから見れば、「私Cの内側で、AとBが対立している」という内的なものになります。AとBが互いに外的に対立し合っているというのは、見方を変えれば、それらを統一するCそれ自体の内的な性質として分化・発展してきた結果だとも言えます。対立の背景(基盤)には必ず統一があります。より深く、より大きな真の実在Cにおいて見れば、AとBという二つ(多)の対立は、一つのものであるCの内側において起こってくる「自由の発展」だと言えます。
173頁

著者の言葉を借りれば、これらは主客未分のものを分析的に後から解説しているということだと思います。しかし、こうして分解することでわかりやすくなるということもあるわけです。自由とは「自らに由る」ということであり「他に由る」ではないということを理解するために上の例はわかりやすいのではないでしょうか。

一即多、多即一

多様と統一動的な発展、といった重要な言葉を説明しながら、最終的に著者は、「一即多、多即一」を以下のようにまとめてくれています。

実在の唯一性は、そこに顕在化する多様性によって、自らの唯一性を否定されながら、成り立ち続ける(一即多)。また、実在の多様性は、それらを場として支える唯一性によってその多様性(個別性)を否定されながら、成り立ち続ける(多即一)。これが真の実在の根本的なあり方(方式)だというわけです。
179頁

この文章はちょっとすごいです。これ以上の解説はとてもできないので引用するだけで留めておきます。


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