結果が先に来ることはない。
最近、友達と「考え方のちがい」について話すことが多くなった。
特によく話すのは自分の意思決定について強く責任感を持っている人で、「なんとなく」で生きている僕が恥ずかしくなるほど、その人は自分の人生に真摯に向き合おうとしている。
でもそんな風に見える人でさえ、弱さを抱えているということもなんとなく分かってきた。
そして、そんな中で、かなり大事だと思えた気づきがある。
それは、「結果が先に来ることはない」、ということ。
これがどういうことなのか書きたいと思う。
人は、自分が設定した前提のとおりに生きている。
いわゆる価値観といわれるこの前提は、経験によって上書きされていったり、
新しいものとの出会いでまるごと書き換わったりする。
そしてその前提条件の満たされ方で、人は判断をして次の行動へとつなげていくのだと思う。
ここで僕が提案したいのは、判断したものを「結果」と呼んでしまわないことだ。
僕自身が大学生で、しかも就活中ということもあり、
「将来何がしたい?」「どんな人になりたい?」といったことを周りと話す機会が多い。
すると「こういうことがしたいけど、できるかどうか分からない」とか、
「考えてみたけど、分からない」という展開になることがままある。
僕自身に何か実績があるわけではないけれど、
生きている以上、こういった質問の答えはいくつあってもいいと思うし、むしろなくても何の問題もないと思う。
それは、その答え="結果"が先に見つかることはありえないからだ。
今の時代、行動を起こす人が讃えられ、何もしない人はむしろ貶される風潮がある。
行動した人は「行動してきた結果」をよくしゃべるし、まるでそれが世の中のすべてであるような表現をする人もいる。
それ自体が悪いことだとは思わないけれど、例えば10年後のことなんて、どれだけ行動したってわからないじゃないか、と僕は思う。
色んなものがちょっとずつ変わり続けている世界で、「結果」を先に決めつけてしまうのはナンセンスだ。
先の見えない不確実性や、思いもよらない偶然があるからこそ、人生にちょっとしたスパイスが加わって、誰もがオンリーワンの存在になる、てのが僕の考えだ。
これってもしかすると、かなりの人のリミッターをぶっ壊してしまうかもしれない。
これまで自分が結果だと思っていたものは、人生という過程のごく一部にすぎなかったということに、おそらく気がつくからだ。
もしあなたがあなた自身の過去をネガティブにしか捉えられなくても、そのことに“今”を縛られる必要はない。
なぜなら、結果が先に来ることはないのだから。
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