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590飛鳥寺の用材を伐りだす、善信尼らが帰国し桜井寺に住む 592飛鳥寺の仏堂と歩廊は完成 593飛鳥寺の塔の土台のなかに仏舎利を入れる 594三宝興隆の詔をだし諸臣らは競って寺を建てる 595慧慈(高句麗の僧侶)が帰化し上宮太子の先生となる、慧聡(百済の僧侶)も飛鳥寺にすむ
584司馬達などの娘を女性僧侶にした。蘇我馬子が仏法に帰依した 585蘇我馬子が大野丘の北に仏塔を建てた。疫病のため、物部守屋と中臣勝海らが、天皇認可で、寺と塔を焼き、難波堀江に仏像を棄てた 587年物部守屋を滅ぼした 588百済が仏舎利や僧侶や建築士を献上した、飛鳥寺の建設着工
538年仏教公伝 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した 574聖徳太子誕生 577百済威徳王が経論などを献上 579新羅が調と仏像を献上
太子関連 29欽明(540〜571)(磯城嶋天皇、天国排開広庭天皇) 30敏達(572〜585)他田(訳語田)天皇、渟中倉太珠敷尊 31用明(586〜587)大兄皇子橘豊日命、橘豊日天皇 32崇峻(588〜592)泊瀬部天皇 33推古(593〜628)額田部皇女、豊御食炊屋姫天皇
厩戸王子のほかの名前 ○法王大王(596年の伊予道後温湯碑により)→数え23歳のとき ○等与刀弥々大王(トヨトミミ)(609年作られた元興寺の丈六仏の光背銘より)→数え36歳のとき 豊聰耳(トヨトミミ)とは=耳がさとい=聡明な、という意味。
飛鳥寺(日本初の壮大な寺) 588年、寺用地を取得 590年、木材切り出し 592年、仏堂(東金堂と中金堂と西金堂?)と歩廊(回廊のこと?)が完成 593年、塔の土台に仏舎利を入れた 596年、飛鳥寺完成(塔が?) 605年、銅と繍の丈六像(仏像)を作り 606年、金堂に納めた
慧慈とは=高句麗からきたお坊さん(厩戸王子に仏教をおしえた先生) 飛鳥寺とは=「法興寺」のこと(=飛鳥寺は地名からなづけた)(=蘇我馬子がたてた日本初の壮大なお寺)(=お堂の配置の仕方は高句麗と似ている、瓦の形は百済と似ている) 法興寺とは=仏法が栄える寺という意味。
山背大兄王は→→蘇我入鹿(従兄弟)に斑鳩宮で襲われるも生駒山に逃げる。しかし、味方は少なく追い詰められ、斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町)に戻り、一族もろとも自殺した=上宮王家の滅亡=643年 そもそも、 山背大兄王(子)とは=厩戸王(父)+刀自古郎女(母)(=蘇我馬子の娘さん)
皇位継承の仕方について 欽明天皇の後くらいから、 「大兄」制度が確立されてくる。 天皇には何人も嫁がいて、それぞれの正統な嫁々の、子供グループの中の、長男が「大兄」となる。皇位継承の最上位資格者を表す。しかし、結局、皇位継承できるかは、豪族の意思次第。
用明天皇(父)=欽明天皇(夫)+蘇我堅塩媛(嫁)(馬子の娘さん) =磐余の池辺又槻宮(桜井市)居住。 574年(数え1歳)厩戸王子が誕生 593年(数え20歳)厩戸王子が皇太子に 厩戸王子(子)上宮(↑父の住居の南方、近い)に居住→601年(数え28歳)斑鳩宮に引っ越す。
まとめてみました。だいたいどの天皇のあたりの人なのかも書いてあります。 スサノオ(神武東征以前) 大国主(神武東征以前) 事代主(神武東征以前) 天日方寄日方命(神武天皇1代) 健飯勝命(綏靖天皇2代) 健甕尻命 豊御気主命 健飯賀田須命 大田田根子(崇神天皇10代) 大御気持命(崇神天皇10代) →→→(ここから三輪氏)→→ 大友主命(崇神天皇10代垂仁天皇11代) 志多留命 三輪石床 三輪身狭(安康天皇20代雄略天皇21代) 三輪特牛 ①
学校では教えてくれない、物部の系譜。大筋をまとめてみました。どうも物部の先祖が出雲進出?した時代は、神武天皇が東征のもっと前。その意味では、天皇家よりも歴史が古い、大和の「ええとこさん」と言えそうです。 饒速日命(神武東征以前) 宇麻志麻治命(神武1代) 彦湯支命(綏靖2代) 出雲心大臣命(孝昭5代) 大矢口宿禰命(孝霊7代) 大綜杵命(孝元8代、開化9代) 伊香色雄命(崇神10代) 物部十市根命(垂仁11代) 物部胆昨宿禰(仲哀14代) 物部五十琴宿禰(
学校では蘇我血筋までは教えてくれない。そこで気になる蘇我系譜をまとめてみました。上から追っていってもらえれば「へえ」となるはずです。 上から順番に 孝元天皇(第8代) 彦太忍信命 屋主忍男武雄心命 竹内宿禰(景行天皇12〜仁徳天皇16に仕える) 蘇我石川宿禰(蘇我氏の祖)(大阪河内の石川に住う) 蘇我満智 蘇我韓子 蘇我高麗 蘇我稲目(宣化28欽明29)(近鉄大和八木駅から3キロ西の曽我神社の場所) ①→蘇我馬子(敏達30用明31崇峻32推古33)→蘇我
初期の日本仏教の真の功労者に迫る。信頼できる「ある本から」まとめてみました。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日の説仏教伝来は蘇我稲目、仏法再興ををしたのは蘇我馬子、経典の注釈と講説を行ったのは厩戸王(聖徳太子) 仏教伝来の蘇我稲目仏像や経典等を百済から日本に導入しました。しかし、無残にも疫病の責任を背負わされたあげく、仏像は焼き捨てられました。 仏法再興の蘇我馬子物部を撃破し仏教が初めに興隆されるきっかけを作りました。日本初の壮大な寺院である法興寺(飛鳥寺)