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踊りを見て目を輝かせる人の「表情」に、ただただときめく


盆踊りを始めてから、踊りの「観られ」方というものも、なんだか大きく変わった気がしている。


踊りに居合わせた他者から、観られているという他者ありきの意識の段階ではなくて、観られ方も踊りによって自在に誘導できるのではという可能性に気づき感じている。



盆踊りを始めるまでは、ミュージカルやジャズがメインの踊りだった。西洋クラシックのみ習得し、筋力などの西洋解剖身体学、そして演劇的能歌舞伎の足腰を少し学んだくらい。


踊る場所は、数百人〜千人のホール空間の暗闇の中もしくは鏡張りの狭いダンススタジオがほとんどで、お客さんや観る人がいても物理的に離れていたし、暗くて表情はほぼ見えなかった。


そうやって、見せる場と練習の場がはっきりと分かれていたから、自然と顔の表情を作り身体の表情を作り、、役柄に合わせて習得した技を使い分けてと、はっきりとした切り替えを持っていた。



それが、盆踊りを毎日のように踊るようになって、練習でも舞台本番でもない、これまで知らなかった状況に身をどしりと浸して踊らせてもらうようになって、不思議な感覚が生まれ出した。


特に他者に見せる目的ではないけれども、常に他者からの目線はあり、空間も時間もうねるような踊りを踊り続ける環境。


盆踊りはトランス状態になると言われるけれど、意識が完全に無くなることはなく、コミュニティ環境でもあり社会性も保ちながら、どこに意識を置いて踊るのか探っていった。


本来の盆踊りの目的であれば、それは神霊や先祖に向かった意識となるのだけれど、現代で特定の信仰を持たない私は、感謝というざっくりとした大枠でその方向を捉えているような気がしている。




観られているというのを常に感じながらも、視線を合わさずに踊り続ける。
その時はパフォーマンスする人ではなく、お金を頂く演者でもなく、お祭りの参加者・来場者のひとりなので、場に溶け込んで一体となれるように観せる動きをする必要なく、内側に意識を向けて踊る。


そして、今年の夏から盆踊りのお手本役またパフォーマンスとして踊ることが増えてきた。

そうすると、本来は儀式性の強い盆踊りを、見せるもの・楽しんでもらう踊りあるいはエンターテイメントとして踊ることになっていく。


明確にお客様という存在が目の前に生まれていき、その人へ笑顔を向けて、身体エネルギーをそちらに向けていく。

文字通り、全身全霊で身体動作を言葉のように生み出して、多数の相手に向かって強くコミニュケーションを図っていく。



ここで、次第に気づいたことがある。


それは、盆踊りの本質のひとつは、いかに周囲の人たちを巻き込むように踊りへ誘うのかということ。
いかに踊らせることができるか、、それが盆踊りの重要なポイント、つまり踊る目的なのではないかと、体感することができるようになった。



そして、人が何もない空間から踊りのある空間に入ったときに、フラットな感情の状態から、音のリズムや視覚変化によって高まり、「踊りたい!」という気持ちが溢れると同じくして、実際に踊り始める。

その、ひとりの中で巻き起こる感情の大きな変化の瞬間が、実は人の美しいが詰まった瞬間なのではないか、、と、そう感じるようになった。



きっかけは、、
私が踊っているときに目線を向けた、踊りを観ている人の表情が、信じられないくらい美しかったこと。
輝いてみえて、時が止まったように感じて、今でもその顔たちがスローモーションのように鮮明に思い出される。



一言で言うと、ときめきの表現といえるかもしれない。

その表情は、目を自然に見開いてキラキラと輝かせ、自然と頬が高くなって、口をハの形に開けて、、
無意識に自然に笑顔になっていて、目をときめかせて、柔らかく見つめている感じ、、

その目線は、私の目を見ているわけではなく、顔の表情を見ているわけでもなく、具体的な身体部位の動きに注目しているのでもなく、何かふわっと空間全体を捉えて夢中になっているかのような、踊る私には見えない踊られた瞬間から広がる空間のうねりを感じとっているかのような、、言葉で表現しにくい感じであり。



さらに、その表情は男性も女性も不思議と同じで、子どもに戻ったかのようなただ純粋な好奇心ではなく、豊富な経験から成熟した精神を持つ大人だからこそ見せる、深さのある表情で。


年齢も関係ない。
国籍も関係なかったし、文化や生活が違っても、その表情は普遍的な印象で、綺麗だった。



少し緊張したような表情の人の変化や、普段笑わない人の変化であれば、尚更演じるこちらが心動いてしまう、良い表情。


リズムを感じて踊りを見る時に、ふと心の琴線に触れて生き生きと表情が生まれるその時。


踊る私の心は、その観る人のエネルギーに感動する。

この顔を見たいから踊りたいと思う。


(ただ、土台をもった人でないとその表情にはならないのかもしれない。土台というのは、文化芸術への理解や経験から生まれる感性や持っている信念の性質や、性格的気質の部分。)



(因みに、子どもがそういった表情を見せている姿は見たことがない。不思議そうな表情で踊りを見ていることは多いが、好奇心としてであって、踊りを噛み締めるまでは精神面でまだ到達していないのかもしれない。そういった子どもたちが、大人と同じ表情をするのか。踊りでそれは可能なのかは今の段階では分からない。)


能シテ方の観世寿夫の著書にも、
歌や踊りの花も、あくまでも演者と観客との間の自然な出会いに求められるもの
と書かれている。



日常生活ではほぼ見られ得ない、この表現を見ることができるのは、エンターテイメントの一つのゴールなのかもしれない。


ただ、盆踊りの場合はこれは、、
始まりの一段階に過ぎないのかもしれない!


ここから、その人が踊り出すのか、また踊らせることができるのか、踊り続けることができるのか、、

こうした次の段階が待っていることは、盆踊りが他の娯楽や芸能文化芸術などどは違っていて奥深く面白いポイントなのだと思っている。


踊りが連鎖して、エネルギーが連鎖して渦を巻くように上下に水平に広がっていくのを、多くの人が肌で感じることで盆踊りははじめて成立する。



はじまり、私が毎日盆踊りを踊り出すきっかけになったあの日も、もしかしたら自分では気づかずに、、誰かの踊りを見てこんな表情をしていたのかもしれない。


その表情は、創造的で、誰かを幸せにし、心昂らせ、良いエネルギーを広げていく、、



人生をかけて、一人の表現する人として、もっともっとそんな表情を生み出していけるような、そんな人になっていきたいと強く思う。



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