[書評]『喧嘩両成敗の誕生』
さていきなりですが質問です。以下の特徴を見てみなさんは「どこの国の人」を思い浮かべるでしょうか?
プライドが高く、キレやすい。都市部では些細なことですぐに衝突が起きる。しまいには路上で殺人が横行し、これをきっかけにした暴動がしょっちゅう勃発する。こうした紛争はバックに有力者がついている方が有利になるので、商人でさえも有力者の傘下に入ることが常態化していた。
南米や東南アジアのギャングの姿を思い浮かべただろうか?それともアフリカの紛争地帯が想起されただろうか?たしかに字面だけ見たら「ボードウォーク・エンパイア」(1920年代のアメリカ禁酒法時代のギャングを描いたアマプラのドラマシリーズ)や「ナルコス」(1980年代コロンビアでの麻薬戦争を扱ったNetflixオリジナルドラマ)さながらの血生臭い場面の数々。
ところが。これは何も遠い異国の話ではない。なんとかつて日本で見られた光景なのだ。「そんな馬鹿な!」と思うのも無理はない。聖徳太子の「和を以て尊しとなす」の一文を出すまでもなく、日本人といえば「穏やかで揉め事を好まない温和な民族」という印象があるのではなかろうか?そんなイメージとあまりにもかけ離れた光景。いったいどういうことなのか。
種明かしをすると、上の場面は日本は日本でも、室町時代の日本だ。今の日本人とは似ても似つかない、価値観の断絶を感じないだろうか?異文化理解と言えば、同じ時間を生きる、異なる国の文化を学ぶのが普通だ。でも、同じ国を生きる、異なる時間を生きた人々の文化を学ぶ方が、よっぽど今の自分達の価値観を相対化して理解できるのではなかろうか?
そんな不思議な世界を案内してくれるのが、清水克行さんの『喧嘩両成敗の誕生』。読んでいてこれほどワクワクして、かつ価値観がぶっ壊されるような衝撃を受けたのは、他にはあんまりないんじゃないかという一冊。びっくりするようなエピソードが文中にわんさか出てくるが、1つ見てみよう。
応永三年(1370)に書かれたとある日記にはこのような一説がある。
末代といへども主を殺すの条、希代の所為なり。下克上の世、およそ怖畏きわまりなしの秋なり(本書P27)
これは葉室長親という公家が彼に仕える侍に斬られるという事件の伝聞と感想だ。葉室が死亡したという噂も飛び交い(実際には一命を取り留め、斬りつけた侍は他の家来に殺された)、それを信じた記録者は恐れ嘆いている。「下克上の世」とは戦国時代さながらのワードだが、一体なぜ葉室は家来に斬られたのか?恩賞の不満でもあったのか、それとも主家にとってかわろうという野心があったのか?
驚くなかれ。なんと葉室が斬られた理由は…「ゲームの勝敗をめぐるトラブル」だ。
「しょうもな…」と思ってはならない。この中世日本、実にしょうもない理由で次々に人が命を落としていく。現代からしたら信じがたいほど「命が軽い」。この悲運な葉室と家来は双六で遊んでおり、その勝敗をめぐって刃傷沙汰になったという。いやはや、ギャンブルは人を狂わせるというが、その境地も言えるだろうか。
当時の双六はこのような盤双六(wikipediaより引用)
この時代の人々は、現代人には理解しがたいほど「名誉や誇り」を大事にする。そして時には命を投げ出してでもそれを守ろうとするし、それゆえ血みどろの衝突も起きる。前に誰かが室町日本に生きる人々のメンタリティを一言で表していた。ズバリ「ナメられたら殺す」と。言い得て妙だと思う。
しかもこうした個人間のトラブルが、往々にして集団同士の紛争に発展してしまうのもこの時代の特徴。1つ事例を紹介しよう。
応永二十六年(1419)、京都の本結屋(髪を結う紐を売る商人)とそこに主人の命令で注文した品を取りに来た下女(使用人)とのトラブルから事件は始まる。注文の品がまだできていなかったらしく、イライラした下女は本結屋を散々なじった。「なんで納期に間に合ってないんだよ!!!」といったかどうかはわからないが、ここまではよくある話。
ただよほどイライラしていたのだろう。下女は本結屋に「悪口」を吐いたという。これが本結屋のプライドを傷つけ、結果激昂。下女を怒りに任せて殴り踏み躙り、挙句の果てに下女の髪を切り落としてしまったらしい。髪を切り落とすというのは今以上に女性性を否定する屈辱的な行為。下女は自分の主人に泣きついた。
この主人が転法輪三条公光という公家に仕える侍。当然下女に対する仕打ちにブチギレ、主家に報告。本結屋への報復支援を求める。しかし本結屋、この復讐戦を予期していた。商売人ではあるものの、かねてからこうしたトラブルに対処するため室町幕府の将軍側近関口氏の家来になっており、関口家の同輩を集めて先制攻撃を仕掛けるべく、武装して京都の路地で待ち伏せをした。
結果、京都で決闘が繰り広げられた。情勢は下女の主人が圧倒的に不利。それでも刀を抜いて本結屋の集団に斬りかかり、2~3人を斬り倒し、なんと本結屋と差しちがって自らも命を落とした。
だが話はこれで終わらない。下女の主人の非業の死に憤慨した同僚が決闘現場に押し寄せ、復讐戦に挑んだ。これを受けて関口氏も家来たちも大挙して応戦。気づけば京都で市街戦が勃発した。多数の死傷者を出した末、合戦は関口氏側が勝利を収めた。だが関口氏側はこれで収まらず、勝利の余勢を駆って下女の主人の主家・三条家の邸宅に襲撃をかけようとした。
さすがにこれを見かねたのが足利の名門・吉良俊氏(あの『忠臣蔵』でお馴染み吉良上野介のご先祖様)。自身の邸宅が合戦の舞台のど真ん中だったこともさることながら、関口氏が足利一門の今川家の庶家だったので、今川家の本家筋にあたる吉良家として、暴走を止める責任を感じたと考えられる。俊氏が三条家の警護を買って出たことでようやく事態は沈静化したという。
吉良俊氏(戦国きらら隊HPより引用)
「事実は小説よりも奇なり」とはこのことを言うのだろう。些細な悪口をきっかけに京都の街で合戦が生まれる。それくらい室町人は「名誉や誇り」を重んじる。トラブルが起きたときは、自力で暴力を行使することもいとわない、現代とはかけ離れた「自力救済社会」であった。そして紛争が収まるかどうかは、自らのバックにどれだけ有力な組織がついているかが鍵になる。強力な絆で結ばれた集団が割拠する「集団主義・共同体主義」社会でもあったのだ。そりゃあ室町時代を描いた大河ドラマが少ないわけだ。物語にしても全く共感できない。
そんなハードボイルド社会で必然的に生まれる問いが「どうやったら紛争を解決できるのか?」というもの。ここでいよいよ本題、喧嘩両成敗の登場。日本史の教科書で一度は目にしたことのある(そして「喧嘩」という漢字が試験で書けずに苦悩したことのある)文言。有名なのは駿河の戦国大名・今川氏氏親の制定した『今川かな目録』の一節。
一、喧嘩におよぶ輩、理非を論ぜず、両方共に死罪に行なふべきなり。(本書P4)
今川かな目録(明治大学博物館HPより引用)
「喧嘩しただけで死刑だなんて物騒な…」「というかこれなら喧嘩ふっかけられた方も死刑じゃん…」と中学時代に思った記憶がある。戦後の日本史学界では、喧嘩両成敗は今まで見てきたような「自力救済観念」を否定して、公権力による国家裁判権の確立に重要な役割を果たしたとかつては語られてきた。
「戦国大名の定めた法(分国法)=喧嘩両成敗」ぐらいのイメージが強いが、喧嘩両成敗を明確に定めた分国法は現存するもので3つしかない。例えば他の分国法では「当事者同士の決闘による解決」や「先に攻撃した側の罪を重くする」など多種多様な紛争解決法を採用していた。分国法に定められたもの以外にも、中世社会には「籤引き」や「湯起請」(罪の有無をただすために、起請文を書かせたうえで熱湯に手を入れさせて、やけどすれば有罪とするもの)といった、審判を神に委ねる裁定法もあり、何も喧嘩両成敗だけが「自力救済の克服」手段ではなかった。
湯起請の古代版である盟神探湯(毎日新聞記事より引用)
喧嘩の真相究明を無視して当事者同士を成敗する、一見理不尽に見える喧嘩両成敗。ところが意外なことに、この法令は同時代の人たちの合意・納得を得ていたと言う。一体なぜか!?
それは、中世の人々が「双方の損害を等価にすること」に凄まじくこだわっていたからだという(こうしたバランス感覚を「衡平感覚」という)。このバランスへのこだわりは現代人の想像をはるかに超え、時には真相の究明や当事者の都合すらも傍に置かれることになる。これまた一例を。
応永三十一年(1424)、細川満元(あの有名な細川勝元の祖父)の邸宅で行われた酒宴で、守護大名赤松家の四男・赤松義雅が、酔い潰れた将軍側近を殺害するという凄惨な事件が起きた。側近の同輩は憤慨して襲撃寸前になったが、将軍・義持はこれを制止して、義雅本人の切腹を命じた。
これで一件落着…となはならなかった。当の義雅本人が失踪してしまい、切腹させることができなかった。ただこれでは殺された側近の同輩が納得いかない。凄まじい抗議の末、赤松家は一つの代案を出した。なんと全く無関係の裏壁という赤松家の家来を身代わりに切腹させることにしたのだ。これぞほんとの詰腹。
冗談を言っている場合ではない。身代わりにされた裏壁家では、親が切腹するか10代の息子が切腹するか、お互いにかばいあって揉めた末、息子が切腹することに。関係者は皆涙を流したとのこと。さて身代わりの不幸はともかく、加害者側も被害者側もなんとこの身代わりの切腹に納得して、矛をおさめたのだ。なぜか?将軍側近1人の殺害に対し、赤松家も家来1人が切腹。そう、釣り合いが取れたからだ。
おそらくこうした感覚は、現代人には理解し難いかもしれない。だが、この中世人の心性について書かれた一文でとても印象的なものがあるので、少し長いが引用してみる。
なにかもめごとがおきたとき中世の人々は、一方が全面的に正しくて、他方が全面的に悪いはずだとは、必ずしも考えていなかったのではないか、と推測をしている。人々は争いになる以上、いずれの側にもなんらかの正しさがあり、また同時に、なんらかの落ち度があるに違いないという認識を共有しており、その認識のもと、一方に全面的な「理」を、他方に全面的な「非」をあたえるような明快な裁きよりも、双方の主張のあいだをとる「折中の儀」を最善策と考えたのではないか(中略)一方だけが確定的に勝利する裁判による判決は決して望ましいものではなく、むしろ「争っている当事者を仲直りさせ、共同体のさまざまな社会的絆を維持し、作り上げることに貢献」することの方が「真の平和」のありかたであると考えられていたという。(中略)どうも洋の東西を問わず中世社会に生きる人々にとっては「真実」や「善悪」の究明などはどうでもよく、むしろ彼らは紛争によって失われてしまった社会秩序をもとの状態にもどすことに最大の価値を求めていたようなのである。(本文129~130P)
これを読んだ上で、揉め事が起きるとすぐに相手の主張の粗を探して論破しようとする現代人と比べて、どちらが優れているか?などと論じることができるだろうか?現代的な価値観からすれば不合理に見える室町社会にも、当人たちの間では合理性があったのだ。
とはいえ、こうした復讐心を放任し続ければ、社会の中の紛争は際限なく続いてしまう。では室町社会から長く続く平和な江戸時代の間で、どんな試行錯誤があったのか?そのヒントは先ほども引用した分国法の続きにある。
実は喧嘩両成敗を規定した分国法の目的は「喧嘩両成敗を実現する」ことではない。どういうことか?
一、①喧嘩におよぶ輩、理非を論ぜず、両方共に死罪に行なふべきなり。②はたまた相手取り懸くるといふとも、堪忍せしめ、あまつさえ疵をかうむるにをいては、事は非儀たりといふとも、当座穏便のはたらき、理運たるべきなり。(本文178~179P)
①の部分は先ほども引用した部分。そして紛争当事者双方に同等の罰を加えるというのは、まさに中世人の衡平感覚に基づく紛争処理である。つまり戦国大名といえども、当時の慣習をないがしろにはできず、それを採用している。現代のわれわれが考える以上に、戦国大名の権力は脆弱だったと言えるかもしれない。
ただし、①よりも大事なのが②の部分。ここは翻訳するとこうなる。
②(ただし)たとえ相手から攻撃されたとしても、我慢して、その結果相手から傷つけられた場合は、もし傷つけられた側に喧嘩の原因があったとしても、その場で応戦しなかったことに免じて、(今川氏の法廷に訴え出れば、今川氏は)負傷した側を勝訴とする。(本文179P)
そう、喧嘩の前に法廷に行けば、訴え出た方が問答無用で勝ちになる。喧嘩に出れば自らも死罪。でもじっと我慢して法廷に行けば勝利。つまり喧嘩を未然に防ぐインセンティブ設計がこの法令の最大の意図なのだ。そして人々の足を法廷に運ばせるためにこそ、その前段として喧嘩両成敗を採用しているのだ(例えば喧嘩で防御側の罪を攻撃側より軽くする故戦防戦法という原則も当時存在したが、これを採用すれば喧嘩に応じるインセンティブも増してくる)。
もちろん真相の究明などを蔑ろにしていたり、真の公平さという観点からすれば不十分な面も大きい。もっといえば、今まで見たような「激烈なまでの自尊心」を持つ中世人が、喧嘩に応じないという不名誉な道を選ぶ可能性は低いかもしれない。それでも「裁判という選択肢」がそもそも身近ではない人々に、その選択肢を見せるだけでも、自力救済を克服する第一歩になったと言えるだろう。
さぁこの本は、喧嘩両成敗という奇妙な法令の誕生までを辿りながら、他にも落武者狩り、差(指)腹、解死人、流罪、神明裁判など、われわれの知られざる、そして好奇心を刺激する室町日本人の文化慣習をたくさん紹介している。ぜひご一読を。
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