【終戦の日】上官の従軍記録に“藤川一等兵” 祖父の遺したアルバム②
以前、祖父が遺した戦時中のアルバムについて書いた。
あの戦争を生き抜いたものの、父が子どものころに亡くなった祖父は、福山歩兵第41連隊所属の一兵卒として中国大陸やシンガポール、ニューギニア、フィリピンなどで戦った。
福山連隊のことをもっと知ろうと、福山市議会議員 大田祐介さんの『永遠の四一 歩兵第四一連隊の足跡を訪ねて』を購入した。B5判、559ページの大著だ。
先の大戦で2度の全滅を経験した悲運の部隊、福山歩兵41連隊。
この本では、日露戦争後の1908年から福山を拠点としアジア各地の戦地に赴いた連隊の歴史を「マレー作戦」「東部ニューギニア戦」など7章にまとめている。大田さんが実際に戦跡に足を運び、一次史料を集めて入念に調査した結果が綴られている一方で、元隊員の手記やインタビューも掲載されている。
それらの手記の中で、伍長(班長)として日中戦争に従軍した近藤訓理さんの従軍記に目を奪われた。
「私は藤川一等兵を率い、急いで七九〇高地にたどり着いたら中隊主力は健在であった。」
「翌二ニ日朝、全員をたたき起こして各人に飯盒炊事を命じ、私は藤川一等兵を連れて野戦病院へ行き…」
「…この度は命令しなくても自発的にしかも懸命に穴を掘りだした。私も藤川の円匙(シャベル)を借りて掘った。」
「私は直ちに藤川一等兵を連れて下山し、機関銃中隊の衛生兵に応援を頼み…」
下の名前まで書かれていないので、藤川一等兵が祖父かどうか確証は無い。
広島県には「藤川」姓が意外と多いので別の藤川さんかもしれない。
しかし、祖父も当時一等兵で、近藤伍長の記録は祖父のアルバムにあった写真と一致している。*後日、別の藤川さんだったと判明。
万里の長城戦で敵の銃弾を受け「殺してくれ」と懇願する仲間を担いで、降りしきる大雨のなか下山して野戦病院へ運んだときも…
迫撃砲が炸裂する中、必死で壕を掘ったときも…
敵の大砲陣地を決死の覚悟で奇襲したときも…
藤川一等兵は近藤伍長と共に大陸の荒野を奔走していたのだ。
今の私よりよっぽど若い20代の若者たちが「もう一度腹いっぱいの飯を食べたい」「日本に帰りたい」と願いながら過酷な戦いを強いられ、家族の顔を思い浮かべながら死んでいった。
祖父の世代の皆さんが守ろうとした「未来の日本」に今なっているだろうか。そんな日本を築くためにも、二度と若者が戦地に送られることがありませんように。『永遠の四一』この本を通して、初めて祖父と話ができたような気がした。