シリーズ日本アナウンサー史⑧「兵に告ぐ」二・二六事件 中村茂
1936年2月26日未明、第一師団及び近衛師団所属の将兵1,400名は数隊に別れ、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、斉藤実内大臣らを殺害し、永田町一帯を占拠した。世に言う「二・二六事件」である。
当時の東京放送局で最もベテランだった35歳の中村茂アナウンサーは、事件発生3日目の28日、九段へ急いでいた。
軍人会館の戒厳司令部が臨時の放送室になっていたのである。
中村はこの日の午前10時から翌29日午後3時までの29時間に渡って、一睡もせずマイクの前に立ち続けることになる。
青年将校たちへの帰順勧告は遅々として進んでいなかった。
ビラをまいても効果は無く、新聞記者たちは記者クラブにすし詰め状態で役に立たなかった。
29日午前8時30分「大久保、おるか!」陸軍省新聞班長 根元大佐が班員の大久保弘一少佐を呼ぶ。大久保少佐が飛んで行くと「帰順勧告のラジオ放送をしよう。すぐに書いてくれ」と命令した。
大久保少佐はペンを走らせる。
反乱を起こした兵の原隊には「息子を返せ!」と父や母が心配して押しかけていた。それを知っていた大久保少佐は「お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈っているのである。」という一文を入れた。
何も知らずに、国のためと思って行動している末端の兵隊たちが逆賊扱いされ、命を落とすことがあってはならないという思いからであった。
大久保少佐は自ら放送しようとしたが、どうしても言葉が出てこない。
「私がやりましょう。」申し出た中村アナウンサーに、陸軍用の罫紙に走り書きした原稿を託した。
一気に下読みを終えた中村がマイクの前に進む。放送開始は8時40分。
根元大佐によるラジオ放送命令からわずか10分でのことであった。
中村は一語一語はっきり聞きとれるよう、戒厳司令官 香椎浩平中将の気持ちになって、ゆっくりと噛んで含めるように力を込めてアナウンスを始めた。
「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の勅命が発せられたのである。お前たちは上官の命令を…」
兵たちの親兄弟のことなどが次から次へと去来して、目頭が熱くなる。
感情がこみ上げてくるのをぐっと抑えながら読み終えて顔を上げると、戒厳司令部の将校たちも涙を流していた。
「放送を聞いてくれた人々の気持ちを目のあたりに見るような気がした。」と後に中村は振り返っている。
放送の直後から続々と将兵が投降し始め、事件は一気に解決へと動き出した。
日本陸軍同士が東京で市街戦を繰り広げるという最悪の事態を防いだのは、兵たちへ愛情溢れる言葉を綴った大久保少佐と、心を尽くしてマイクに向かった中村の声の力であった。
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