シリーズ日本アナウンサー史⑩学徒出陣 「今後何があっても若者を戦場へ送り出さない。」志村正順アナウンサー
“赤バット”の川上哲治、“ミスタープロ野球”長嶋茂雄らの肖像レリーフが並ぶ野球殿堂博物館。その中にただ1人、アナウンサーとして殿堂入りしたのが志村正順アナウンサーだ。
1936年11月29日の秋季リーグで東京巨人軍の沢村英治投手の活躍を初めてラジオで伝えた。「沢村、左足を思い切り上げて、第一球のモーション。靴底のスパイクがはっきりと見えるほど、高々と上げました。」
生き生きと細部まで描写された沢村の独特な投球フォーム。ミシンの販売員を経て入局してすぐとは思えない名調子で、志村は瞬く間に人気アナウンサーの1人となった。
それから7年後。ガダルカナル島からの撤退、山本五十六元帥の戦死…既に敗色濃厚となっていた1943年10月21日、神宮球場で学徒出陣の壮行会が行われた。
大学、高等学校、専門学校で学ぶ20歳以上の兵役猶予が撤廃され、将来の日本を担うはずだった若い命が、戦場で散ろうとしているのである。
壮行会の実況生中継は、看板アナウンサー和田信賢が担当するはずであった。しかし、和田は下調べをしている内に、学生を負け戦に送るやり切れなさに耐えられなくなり「放送で戦局の悪化に触れるべきだ!」と主張したため担当を外された。当日は酷い二日酔いの状態で現れ、放送1分前になって「お前、やれ」と志村アナウンサーにマイクを託した。
急遽代役を務めることとなった志村は、式次第だけを手にアナウンスを始める。
「征く、東京帝国大学以下七七校○○名(機密上伏せられた)、これを送る学徒九六校、実に五万名、今、大東亜決戦にあたり、ふかく入隊すべき学徒の尽忠の至誠を傾け、その決意を高揚するとともに、武運長久を祈願する出陣学徒壮行の会は、秋深き神宮外苑球場において、雄々しくも、そしてまた猛くも展開されております。日章旗へんぽんとして中空に翻る間に、なおも学徒行進は続いてゆきます!」
冷たい秋雨が降りしきる中、一糸乱れぬ行進を見せる若者たち。
ガリガリに痩せた志村アナウンサーは、最大の敬意を込めて、力強いアナウンスを贈った。
「彼らが行けば日本は戦争に必ず勝つ!頼むぞ!」と祈る一方、「今後どんなことがあっても日本人を戦争に送り出す中継をしてはならない。上司のため、会社のための放送ではない。国民のための放送をするんだ!」と決意したと言う。
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