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とうとう出版社を退職しました⑤

 さて、この原稿はマレーシアに向かう飛行機内で書いている。にやり。そうなのだ、ついに出版社を退職して自由の身になったので、さっそくずっと釣りたかったトーマンという魚を釣るために遠征にむかっているのである。トーマンがどんな魚か知りたい奇特な人はぜひググって欲しい。なかなかこれまで自分の趣味のために長期間仕事を休むことは難しかった。特に釣りっていう趣味についてはこちらの都合じゃなくて魚の都合に合わせないといけない。今、釣れているからすぐ来て!!という無理な誘いに乗るだけのフットワークが必須だ。釣りバカ日誌の主人公がああなっちゃうのも仕方ないのである。 ちなみに人生とは?の答えを知りたいなら釣りをしたらいいと思う。努力すれば夢は叶うのか?答えは魚が知っている。答えはノーだが、イエスでもある。万全の準備と努力を怠れば千載一遇のチャンスを逃してしまう。だから叶うと信じて準備と努力を怠らないことが夢に近づくためには必須。でも、なーんの努力もしなくったってかなてしまう人もたまにいる。こんなところも人生に似ているのであった。
ちなみにトップ画で釣っているのはトーマンではなくグルーパー。ハタです。これは帰りの飛行機搭乗1時間前に釣れました。どうでもいいね。

初めて見た総合出版社の風景

 というわけで晴れてメディアグループの総合出版社に籍を移した僕は、同じ「女性向け生活誌」ではありながら、これまでの手弁当感覚で作っていた雑誌とその規模があまりに違う大型雑誌の編集部に配属された。ここで僕は副編集長→編集長代行→編集長というふうにキャリアを重ねていくことになる。そしてその後、書籍やムック(書籍と雑誌のちょうど中間みたいな存在の本)のセクションの局長を担当したのち、なんという運命のいたずら、赤い糸がしっかり結ばりすぎていたのか雑誌「天然生活」の2度目の創刊に関わることになるのだった。運命って不思議ね。

 さて、小さな出版社を飛び出して覗いてみた総合出版社の風景は驚くべきものであった。
違うのは部数規模だけではなかった。成り立ちから運営の仕方まで、これまで自分がひとりでなにもかも背負ってる!みたいな気持ちでがんばっていたのは、なんだったんだ?というくらい雑誌は組織で運営されていた。これって当たり前なのか?
 もちろん雑誌の企画は編集部がきめるけれど、例えば台割りとよばれる本の設計図みたいなものがあるのだが、それには広告部が大きく関与した。大手クライアントの広告位置とその前後の企画になにがくるか?などの調整は最終的に広告部が判断した。もっというなら、とっても記事風広告の多い雑誌だったから、雑誌ができあがってくると、編集長が見たこともない記事が巻頭特集の前にどっさりあったりして、自分の雑誌でありながらも、まるではじめてみる雑誌のような気持ちになった。
 販売戦略や部数については販売部、販売促進部が大きな力をもっていたし、当然印刷については制作部がしっかりグリップを握っていた。それはそうだろう、雑誌に使用する用紙だって毎号その雑誌のためにだけ特別に作っているものだから。あとはこの雑誌はテレビ番組の料理コーナーと連動しているという特性上、番組のレシピページだけはこれまた番組サイドが中身をコントロールしているので、編集部の関与は最低限であったりと、編集長といえども大きな雑誌という船を動かす乗組員のひとりという感じだった。これまで、なにもかもひとりでやらねばと勢い込んでいた身にとって、これはとってもありがたく、頼しかった。
 入稿や校了で遅くなるときは、おいしいお弁当が編集部員にふるまわれ、遅い時間になるとタクシーで帰宅することができた。ここは楽園なのか!? 編集部のビルの前には時間になると数台の客待ちタクシーが並ぶ。運ちゃんたちはだいたい遅い時間に遠距離で帰る編集部員を把握しているようで「今日はまだ〇〇さんいましたか?」など尋ねてくることも多かった。はて?〇〇さんてそんな遅くまで居残るくらい忙しかったかっけ? んーーま、いいか。
 しかしタクシーに乗れるなんて編集部に椅子を並べて朝までぺたんこの寝袋にくるまっていた自分にとっては貴族になったような気持ちであった。急に思い出したけれど、撮影に持っていくフランスパン(撮影用じゃなくて自分たちが食べる用ね)をわざわざ世田谷のはずれの人気のパン店までタクシーで買いにいって、そのまま港区のスタジオまで乗りつける猛者もいた。さすがにこれは当時の編集長がちょっと待った!をかけたと記憶しているが・・・。もっともこうした高待遇は出版不況とともに今は昔となっていくのであるが、中堅とはいえやっぱ出版社って恵まれてるよなあと思う。

人気雑誌にも忍び寄る出版不況の嵐


 人気雑誌の編集部に席を置きながら周囲を見回すと、同じフロアの別セクションでは次々と雑誌が創刊されて、そしてそれらがものすごい勢いで廃刊となり、なかなか経営的には不安定にも感じられたが、そこはやはり大きなグループの傘下ということもあるのか社員たちは特に不安を感じている様子でもなかった。とても不思議だったが、これがまあ経営基盤の安定ということなのだろうか。前職では雑誌の付録を海外の業者に発注する時、僕個人のクレジットカードで決済していた(これはこれではちゃめちゃだが)くらいだったから、会社の経営状態にはおのずと超敏感にならざるを得なかった。そんな僕からするとこののほほんとのんきな空気が謎でしかなかった。
そもそも僕がこの会社に呼ばれたのは、まだまだ巨大部数を抱えていたとはいえ、じりじりと部数減、広告減を余儀なくされる雑誌の立て直しのためだった。ただ、そのためにいろいろリニューアルを試みようとしても、このときは逆に編集長の担当している部分が小さ過ぎて、なかなかその影響力を与えきれないというデメリットもあった。巨大な船が舵を切って進路変更するには時間がかかるということである。
 歴史がある雑誌であればあるほど、なかなかその変化に対応していくのは難しい。現状のままではいけないとわかっていても、じゃあそれに手をつけるとなると、かならず反対の声が上がった。それでも自分ができるところで、可能な変更を試みた。創刊以来デザインを手がけてくれていたデザイン事務所を変更し、雑誌のイメージを全体で管理するためのアートディレクター体制をしいたり、表紙ビジュアルを変更してバラエティータレントが多かった表紙を女優中心に変えたり。あとは料理ページをいわゆる料理の先生ばかりではなく、当時、まだまだ料理家としては認められていなかったブロガーなどに担当してもらったり。読者参加型のページを作ったり。徹底的にライバル誌を分析し、皆で知恵をだしあって、なんとか部数増にむけてくらいついていった。とにかくこれまでの「あたりまえ」に疑問を持つことを心がけた。こうした施策で多少は雑誌の部数減に歯止めはかけられただろうか。残念ながらそんな努力を嘲笑うかのように世の出版不況の逆風は強まるばかり。大部数を巨額の広告収益でまかなう収益モデルはすでに限界間近だった。むしろ大部数がゆえの高コスト体質メディアは原価高が仇となり苦境に立たされていくものが多かった。
 結局、雑誌が生き残りをかけて進んだのは電子雑誌の配信事業と、雑誌記事の二毛作ともいえるニュース記事配信事業だ。前者についてはNTTが運営するDマガジンの購読者拡大とともに各社とも一時右肩上がりだったが、現在は会員数が激減している。一方後者は堅実に数字を重ねてきているが、配信事業者に頼るところも多かったり、ニュース記事の購読者の高齢化など、消費者のニーズの多様化によって、その行先は予断を許さない状況であることは、配信事業を運営する各社とも、おそらく抱える課題は似ているのではないかと思われる。あ、あくまでも一般論ですよ。一般論。

なんかビジネス記事風になってしまった・・失礼。
まあ、そんなことをしているときに、ふたたび天然生活と僕が出会うというドラマがあったので。次回はその話をしていこうかな。
でも、なかなか書きづらいことも多いのでもしかしたら有料記事にしちゃうかもしれません。そうなったらすみません・・


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