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山口県の戦争遺構のある島で偲ぶ


大津島は人間魚雷、回天の島
人間魚雷は、海軍版特攻隊
戦時中は地図から消された島


■徳山港から船で



徳山港から、船に乗船。
徳山と大津島を結ぶ船便は1日に7便です。
クルマを乗せられるフェリーも
一部あります。
わたしが乗船したのは旅客船でした。

徳山を出てすぐは周南コンビナートと
呼ばれる工場地帯を進みます。





ただ、それを過ぎると進行方向左手には
山が見える中を進みます。

最初、外に出ていましたが、
風が冷たいので結局船室内で過ごしました。




なお、フェリーか旅客船か、寄港する順番に
よって所要時間は変わります。

わたしが乗った便は、行きも帰りも
最短時間で結ぶ便でした。


■人間魚雷とは?




当時の日本海軍は、敵艦を駆逐するために
開発されました。

魚雷は海の中に沈むと雷跡と呼ばれる
気泡が見られます。

そこで、敵艦はそれで魚雷があることに
気づきます。

しかし、日本軍が開発した魚雷は
大変高性能でした。



この雷跡が出ないもので
敵艦に気づかれないものでした。

この高性能魚雷に人間が乗り進む方向を
操り、より高精度に敵艦を
駆逐できるだろうと開発されたものです。

米軍も当初、この高性能魚雷は
警戒をしていました。

徐々にレーダー技術の進歩と共に
その居場所を突き止めることが
できるようになっていったようです。

当初、人間魚雷を発案したのは、
軍の上層部ではなかったのです。

若い士官だったのです。
もちろん自爆する前提の人間魚雷は
海軍の上官がその開発を
認めませんでした。

戦況が悪化するにつれて、
日本兵たちは一発逆転して
その戦況を変えようという思いが
強くなります。

そして、その開発がついに動くことに
なりました。

まさに、この回天は海軍版特攻隊とも
いえるような作戦だったのです。

■戦時下の大津島


工場は壁で覆われていました


この塀の向こうが、工場になっていました。

地元民は何を作っているかは知らされて
おらず、働かされていました。

恐らく、部品を作っていると何の部品かは
わからなかったのでしょう。

このような、軍の機密で
人間魚雷を作られていました。

そのため、戦時中は地図からも
大津島は消されていました。

■海での訓練



 工場で組み立てられた回天は線路を通り
そして、トンネルを抜けてここから
海へ出ることになります。




回天の訓練中にも多くの死亡事故が
発生してしてしまいます。

潜水したはいいが時化などで海が荒れて
浮上できなくなってしまった事故も
多かったそうです。


■多大な犠牲


ここから海へ出されました


 この人間魚雷回天は操縦が非常に難しく、
6本の手と足が必要なほど難しかったようです。

実際に戦地で作戦に使用される際には、
この徳山から人間魚雷を運ぶ船で
敵艦の近くまで行きます。

そこで、乗組員は回天に乗りそして、
その船から切り離され敵艦目指して
操縦していったようです。

敵艦に的中することもありましたが
それは若く尊い命が失われていったことの証です。
また、先述のように訓練中の事故も
多発し、さらに犠牲も多くなりました。


■まとめ・感想



・戦争の悲しい事実がここにあります
・若い志願兵の気持ちは如何ばかりだったかと慮るばかりです。
・今も、世界では戦争・紛争・自爆テロが絶えません。

 どっちが正しい、悪いではなく世界中で
「どっちもどっち」と呼べる日が
来ることを願いたいです


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