40年前の阪急京都線へタイムスリップ
1980年代の阪急京都線は、中間駅の利用が大変不便でした。今からおよそ40年前にタイムスリップしてみます。日中の最も基本となるダイヤパターンでは、15分サイクルで梅田ー河原町間で特急・急行・普通が各1本と普通が梅田ー北千里と堺筋線直通普通が淡路で連絡していました。
停車駅が今と全然違います
特急は、十三・大宮・烏丸の3駅のみでした。急行は、現在の快速急行と同じでした。つまり、途中、9駅停車でした。ちなみに、ラッシュ時には特急・急行だけでなく、通勤特急・堺筋急行・準急がありました。80年代の通勤特急は、特急に高槻市を追加停車するもので、梅田ー河原町は4駅停車です。堺筋急行はその名の通り、当時は天下茶屋まで開通しておらず
動物園前発着の急行で、今のような堺筋準急のように高槻市以北各駅停車でなく、京都市内まで通過運転していました。
この頃の準急は、平日朝ラッシュ時下りのみの設定で茨木市→梅田だけでした。停車も異なり、淡路とその先各駅停車でした。
ATSによって、最速所要時間より遅くなっていた
この時代は、茨木市駅付近及び高槻市駅付近で高架化工事がたけなわで、ATSの整備によって場内信号のあるような駅で停車する際には段階的に速度を落とすようなシステムになっていました。
特急の所要時間は、最速梅田ー河原町で37分、急行44分の時期がありましたが2~5分遅い設定でした。なお、最速の急行の場合途中区間ではありますが、十三ー桂で30分ジャスト。表定速度76キロという通勤電車としては破格の速さです。この時の急行の十三ー桂の停車駅は今の特急の停車駅と同じですが、現在の特急の同区間の所要時間より速かったという事です。
ダイヤの致命的要素
この頃は、前述通り、中間主要駅ともいえる高槻市駅や茨木市駅付近で高架化工事が行われていて、特に高槻市駅では用地の関係上、上り(京都方面)は追い抜き設備を作ることができなかったのです。これにより、代替の待避設備は1駅大阪寄りの富田駅に作られました。これは現在もそのままです。
ただ、そのおかげで急行と普通の接続ができなくなってしまったのです。富田駅や総持寺駅から京都方面(終点河原町まで)への利用は15分に1回の普通しか選択肢がなかったのです。
なお、これは高槻市駅周辺高架工事完成で解消されました。高槻市で普通と急行の接続が復活しました。
下り(大阪方面)特急・急行の致命的な遅さ
この頃のダイヤでは、先述の最速の特急・急行は上りの話です。下りはまず、特急でも河原町→梅田で43分ほどかかっていました。さらに、急行は桂で特急を待避していました。急行は長岡天神で普通を接続しながら追い抜いていました。乗り換えのできる待避はこの1パターンのみです。
これは、河原町など→(高槻市・茨木市などの中間主要駅の周辺小駅)といった利用の場合、遅い急行にのるか行ってすぐの場合、延々普通に乗り続けるしかないと有様です。
使用車両
この時代は、種別によって使用車両が決まっていました。なぜなら、特急や急行は8両編成で普通などは7両編成または6両編成だったからです。特急は、6300系の転換クロスシート(今は、嵐山線)急行は当時増備中の7300系または5300系、で元特急車両の2800系が7300系に置き換わっていく最中でした。急行から追い出された2800系は中間車両1両抜かれ7連になり普通ようになっていきました。梅田ー北千里、河原町の普通は、5300系・3300系・2300系、前述の2300系でした。地下鉄乗り入れ系統は3300系と大阪市営地下鉄60系という今の車両の前の車両でした。この時代の堺筋線乗り入れはいまでは当たり前の5300系や7300系は入っていません。これは、堺筋線が6両編成だったからです。
なお、ラッシュ時運転の堺筋急行は5300系専属でした。準急は普通用と共通でした。
まとめ
・高架化工事のためか、とにかく、不便なダイヤでした。
・京阪間直通客重視で中間の利用はかなり冷遇されていた。
・使用車両は、種別で明確に分かれていた。
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