Between TOKYO & KYOTO / 中村佳穂は「京都で一番ヤバイ奴」 (2015)
*2024.10.22.加筆修正
2013年4月から京都精華大学ポピュラーカルチャー学部音楽コース(以下「ポ学部」)の特任教授になった。初年度は前期(4月〜7月)のみ、スチャダラパーBose君と二人の授業だった。生まれて初めての先生としての日々。とにかく頭をフル回転させる必要があった。経験したことのない脳の疲労で毎週ぐったりしたが、京都の景色も含めて今までにない刺激に満ちていた。
明けて2014年4月。今年度はいよいよ自分一人での授業が一年を通して始まった。指定のテキストなどはなく、教える内容と方法は全て自分一人で考えなければならない。
僕が義務教育の他に受けた音楽教育は、幼稚園の時に1年間だけオルガン教室に通っていたことくらい(しかもバイエル40番位で挫折)。誰にも学んだことのない作詞作曲を、先生として教えるという暴挙、じゃなくて挑戦。
高校の時からどっぷりと音楽にのめり込んで、楽器を練習し、名曲の数々に感動し、無数の駄作を作り続けた試行錯誤の末に、少しずつ自己流で曲が作れるようになった。ポップス・ロックのミュージシャンには、僕と同じように音楽の専門教育を受けたことのない人が多い。
ところで以前から「高野寛は音楽理論に強い」と思われている節がある。デビュー時からアレンジを自分で手がけていたり、転調を多用した曲が多かったり、自己流でやっているにしては凝った曲があるからかもしれないが、曲調がひねくれているのは、ほぼYMOとビートルズとトッド・ラングレンとXTCの影響と言ってもいい。若い頃に貪るように聴いてきた楽曲が、自然と体に染み込んで、自分の感覚と混ざりあって曲を創れるようになった。バンドと宅録を続ける中で少しずつ身に着けた「耳」と「感覚」だけが頼りだった。
未だに五線譜(オタマジャクシ)はちゃんと読めない。ポップスの世界でよく使うコード譜は、プロになってから読み書きを覚えた。弦楽器と共演する時など譜面が必要な時は、耳で良いと思った響きをコンピューターに打ち込んで、譜面に出力している。
そんな自分が2回生〜3回生の選択科目「ソングライティング」の制作実習で作詞作曲を教えることになった。事前にシラバス(授業計画書)を準備した。2回生に向けた「制作実習」のシラバスはこんな感じだった。
作詞作曲経験ゼロの学生もいるので、前期は曲というよりは短いモチーフを作るところから始めて、後期になると楽曲らしいものを1ヶ月かけて作ってもらう。一人でずっとやっていると煮詰まるので、グループで制作したり、ある程度曲の作り方がわかったところで好きな曲のカヴァーに挑んで、プロの曲の構造をしっかり把握する、そんなカリキュラムを考えた。
授業は毎週13時から17時50分までの90分×3コマ、15〜20人の学生を相手に行う。最初の1コマは課題のテーマに関係あったりなかったりするさまざまな講義をして、その後の3時間半は、学生が課題をつくるのをひたすら待つ。ひとりひとり見て回り時々アドバイスする。
授業が終わる頃、声はいつも枯れていた。
本当は朝8時半くらいの電車に乗れば授業には間に合うのだが、その時間帯はひどい通勤ラッシュで、うっかりソフトケースでギターを持参してしまい楽器が壊れそうになった。
結局、6時に起きて10時半には京都に到着、現地で授業の準備をすることにした。日曜の夜になると、寝坊しないかと不安で眠りが浅くなったり、翌日の授業の内容を思いつき寝床を抜け出して資料を漁ったりして、寝不足のまま大学に向かう日も度々あった。かと言って、乗り過ごすのが怖いので新幹線でも熟睡はできないのだが。
2014年は週1日、2015〜17年は週2日(月曜が2回生、火曜が3回生)、毎週授業を続けていた。確か自分の都合での休講は1度だけ。我ながらよくやったと思う。朝方駅前にちょこんと座っている猫の定点観測と、行きの新幹線の車窓から富士山を撮るのが日課になった。
僕と同時期のポ学部音楽コースには、Bose君の他に、近田春夫さん、トラックメイカー/DJのAOKI takamasa君、シンプリー・レッドのサウンドプロデューサーとしても著名なドラマーの屋敷豪太さんなどが教授として在籍していた。教員控室は時にフェスの楽屋のようで、近いようでいて会う機会の少ないミュージシャン同士の会話も楽しかった。
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