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【長編小説】「たまゆらの街」入口(読書感想文を添えて)

懐かしい羽生の街、紅葉の秋、一人の旅人がこの街を訪れる──。

こちらは「たまゆらの街」という長編小説(18万字程度)への入口です。

本編は、「小説家になろう」という投稿型小説サイトに置いてあります。

https://ncode.syosetu.com/n0770gs/

ジャンルとしては、現代小説。

羽生(はにゅう)という架空の、紅葉美しい小さな城下街を舞台に、旅人と街の住人が交流する一週間の叙情、旅情小説です。

こちらの小説は、2000年代前半、ある交流サイトにて、複数人数で小説を執筆するということが盛んになり、その流れの中で、私が主催、企画して他三名を集め、総人数四名で執筆されました。

時代の移り変わりの中、その交流サイトも既になく、眠らせていた小説を引っ張り出してこようと思ったのは、こちらのライターさん

もうせんさんの文章が素敵だなと思ったことがきっかけでした。

そのもうせんさんが、ココナラで感想文のお仕事を受けておられることを知る機会があり、「何か頼んでみたい」と思い立って、古い小説を引っ張り出してきました。

もうせんさんの依頼窓口はこちら。

もうせんさんに感想をお聞きしてみたく、こちらを通じて依頼しました。

結果として、非常に満足しています。

とても素敵な感想を聞くことができました。

この投稿の下部四千字は、そのもうせんさんが書いてくださった読書感想文です。

これがこの小説の紹介になるのではないかと思ってのことですが、普通に小説をまっさらの状態で読みたいという方向けではありません。

こちらの感想はあくまで私が読みたいがために依頼したもので、未読の読者さんのためのものではないからです。

それでも、「たまゆらの街」という小説は、謎解きのミステリーが主眼の小説のように、ストーリーを暴露してしまうということに要点があるのではないと思っているので、敢えて掲載させていただきます。

人と人との出会いと別れ。

そういう小説です。

ネタバレをお気になさる方は上部のリンクから、先に感想文をも読んでみたいという方は下へ進んでから、最下段のリンクから本文へ飛んでください。

それでは良い読書を。


🔲🔲🔲🔲 以下、もうせんさんの読書感想文 🔲🔲🔲🔲

「ノスタルジックな魅力」の正体

『たまゆらの街』の印象を一言で言うならば、それは「ノスタルジックな魅力にあふれた小説」ということになります。

小説全体に通底する「あえやかなムード」は、後半にかけてより体感的な切なさ、あるいは儚さへと変わっていきました。読後しばらくは夢から覚めたあとのようにぼんやりとしたほどです。

まるで私自身も涼子と同じように(あっという間だったような、とても長い滞在であったような)1週間を羽生で過ごし、たったいま帰宅してきたばかりという感じ。

そして読了から幾日かがたったいまでも、『たまゆらの街』の物語を回想するたびに、とても懐かしい気持ちになります。それはどこか、ふるさとの街並みを思い出すときの感覚に近いようです。

では一体、この「ノスタルジー(≒ 郷愁)」の正体とは何でしょうか?

ここからは3つの観点から、その正体を探っていこうと思います。
1.受け継がれるものを慈しむ
『たまゆらの街』の登場人物に共通するのは「過去から受け継がれるものを慈しむ心」です。

例えば滋之は、祖母から受け継いだプロムナードを心から大切にしています。また紗耶は「陽ざしを受けてやわらかに色をなす木々」から『古今和歌集』の一首を思い出しました。

涼子が探していた千年の瓦も「受け継がれるもの」を象徴する代表的なイメージのひとつでしょう。その姿形や色は、千年のあいだ連綿とつづく人々の思いをいまに留めます。

少し脱線すると、私はこの「千年の瓦」という美しい言葉のひびきから、中上健次の小説『千年の愉楽』を連想しました。口伝という形で路地の物語が受け継がれていく形式は、『たまゆらの街』の解解寺の伝承などにも通じるところがあるかもしれません。

一方、最年少の誉が最初のうちはむしろ過去を拒絶していたことも忘れてはいけません。

誉はいなくなった父を1年で忘れてしまうには幼すぎます。これは誉が母のために(同時に自分自身のために)、つらい過去に蓋をしていたことの裏返しです。

だからこそ過去に起因する「名前の由来」を探すことも憂鬱だった。

しかし誉は他の登場人物との会話を通して、自分の名前に父の願いが込められていることを知ります。それは年長者たちとの交流により「過去から受け継がれるもの」の大切さを教えられたと換言することもできるでしょう。

つまりこの物語では構造として「受け継がれるものを慈しむ」ことが、人の成長としてポジティブに捉えられているのです。

当然、過去を愛することはノスタルジーにつながる重要な要素に違いありません。

もうひとつ形式についても言及しておくと、登場人物4人の視点が「薄絹を重ねていく」ように紡がれるこの小説では、読者にとってすでに一度「過去」となった物語と風景が、繰り返し反芻されていきます。

これにより「現在の体験」と「記憶」のはざまを揺れ動くような、不思議な読書感をもたらす効果があることは、特筆すべき点でしょう。

例えば自分が体験したある出来事を、数年後にふと思い出したとき、当時の「あの人の気持ち」にハッと気がつくという経験があります。

あるいは「あぁ、あのときあの人はこれが言いたかったんだな」と腑に落ちる感覚。

こんなことが起きるのは、数年のあいだに過去がいまの自分と切り離され、出来事を客観的に捉えられるようになるからでしょう。

しかし『たまゆらの街』では、この数年という時間を「形式」がまたたく間に飛び越えて、「ついさきほどの体験」さえも「懐かしい記憶」に変えてしまうのです。

これは小説のノスタルジックな魅力を際立たせる重要な要因といえます。

ただしノスタルジーの方向性を過去だけに固定すると、言葉の本当の意味を見失います。それは『たまゆらの街』の本質的な魅力を見落とすことにもつながりかねない。

ではノスタルジーの本質は何かといえば、それは「手が届かないものへの憧れ」です。

私たちはフィクションにも未来にも、そして(やがて去らなければならない)旅先の風景にも、ノスタルジーを感じることがある。ここからはこの前提にたち、さらなる考察を進めましょう。
2.永遠のジレンマ
「この世の全てのものは移り行くからこそ美しい。
永遠など無い。
静寂の時も永遠では無く、ほんの一瞬。」

滋之はこの言葉を回想しながら、「移ろい行く時。形を留めずに移ろい行く、何もかもが愛おしい」と祖母から与えられた全てを慈しみます。

と同時に、「時として僕は永遠を望みたくなる(中略)あるがままを受け入れる、その事が非常に難い時が、時としてある」と永遠への憧れがあることも示唆しています。

「移ろいゆくこと」と「永遠への憧れ」。『たまゆらの街』では物語の全般にわたって両者のジレンマが描かれ、登場人物の心情と行動を通して、ひとつの答えが提示されました。

それにしても「永遠」とはなんとノスタルジックな響きでしょうか。

私たちが「永遠を手にすることができない」というとき、それは言うまでもなく誰にでもやってくる死を想起しています。

しかし永遠のジレンマは死だけにとどまりません。

たとえば人は異性(同性でも構いません)に恋をすると、その相手と永遠に一緒にいたいと感じることがある。そうして多くの時間を一緒に過ごし、朝に夕に顔を見ていると、やがて恋は覚めて、たいくつな日常へと変わっていきます。

「こんなはずじゃなかった」と多くの人が結婚に幻滅するのも無理はありません。

対象が永遠の憧れであるためには、逆説的に対象から距離をとらなくてはならないのです。にもかかわらず、私たちはつい永遠に手を伸ばしてしまう。

このジレンマもまた「手が届かないものへの憧れ=ノスタルジー」につながる重要なテーマといえます。

物語で永遠のジレンマを実際に(体感として)抱え込んだのは、少年と少女でした。そして彼らが永遠を望んだ対象は、旅行者である涼子(ひいては4人で過ごした1週間)です。

象徴的なのは、4人で墓参りをしたあと、涼子が3人に別れを告げるシーン。

涼子と滋之は(少年少女たちにそう見えていたという意味において)超然とした態度で、この予期していた「終わり」を受け容れます。大人になるということは、こうした別れを何度も経験することなのかもしれません。

それではおさまらないのが誉と沙耶です。涼子のそっけない別れの挨拶に動揺を隠せない。

ただ、ここが面白いところで、両者がとった行動は結果的にまったく違うものでした。

まず誉は涼子が帰るその日に、駅へとかけつけ別れを伝える計画を実行しようとします。

「自分には再会を信じられる手立てがなく、お兄ちゃんがああも人の縁を信じられるのは何故なのか。涼子さんもどこまで信じているの――それを問う為に」

永遠を手にしたいけれど、どうしたらいいか分からない。そんな若さゆえの不器用さが微笑ましいシーンです。

しかし再会した校長先生のこんな言葉によって、誉の計画は未遂に終わりました。

「ここで結ばれたあなた方とその方の縁は、羽生という地を繋ぐものだ。思い出してくれるでしょう、そして、いとおしんでくれるでしょう。その方は羽生を忘れません。だって、韮川君が案内してくれた羽生なんですから」

誉は校長先生と一緒に、学校へ向かうことを選びます。

小説序盤の誉であれば、校長先生の言葉を本当には理解できなかったに違いありません。

名前の由来と父の思いを知り、過去を慈しむことの大切さを知ったからこそ、計画を諦めて1週間の思い出を永遠とすることを選んだのです。

では沙耶はどうかというと、その場で涼子を追いかけてお月見に誘います。文字通り「永遠=涼子」に手を伸ばしたわけですが、別れが先延ばしになっただけであることくらい、本人にもわかっていたでしょう。

では沙耶の試みはまったく意味がなかったかというと、決してそんなことはなかった。

沙耶にとっての涼子、そして涼子にとっての羽生は、白く冴えた月と儚くもやさしく結びつき、永遠の光としてこれから幾度となく2人を照らすことになるのです。「すべてのいとおしい風景」とともに。

結局のところわれわれには永遠を手にすることはできないでしょう。しかし限りなくそれに近づくはできるかもしれません。所有しようとさえしなければ。
3.「分かり合えないこと」
さて『たまゆらの街』を読み進める中で、唯一、違和感を覚えたのは登場人物たちの意思疎通があまりにもスムーズな点でした。

性別も年齢もちがう4人の登場人物たちが、いともたやすく打ち解け合い、心をかよわせていく。そのこと自体は、物語の構造上、仕方がないことなのかもしれません。

羽生やプロムナードがもつある種の雰囲気が、似たような性質の人々を集めるのだと解釈することもできるでしょう。先述した「過去から受け継がれるものを慈しむ」ことも、滋之が言うところの「羽生人気質」のあらわれと考えられます。

ただそれにしても「互いが互いの心情を察し合うような描写が多いのでは?」と、終盤にさしかかるまで感じていました。

例えば沙耶が、涼子にはじめて声をかけられたとき。

「紅茶の香りへ溶けるように響いたその声は、
そぐわない本を手にする女子高生を揶揄するでもなく、
初対面の相手の出方をうかがうような気遣いも感じさせず、
かといって決して馴れ馴れしいものでもなく、いかにも自然だった」

それから滋之が墓参りに3人を誘うシーンで、涼子は沙耶をこのように描写します。

「少女は何も言わない。
だが、表情から、賛同が知れた。
青年の次の言葉を待っているのだろう」

出会ってから日の浅い相手の声や表情から、ここまで心情が読み取れるものだろうか?そんな疑問があったわけです。

しかし墓参りの後で、この「分かり合う雰囲気」は変調していくことが分かります。

涼子の別れの挨拶に誉と沙耶が不満を抱いたことも、その不満に涼子が気がついていない点も、この変調を如実に示しているといえるでしょう。

さらに印象的だったのが、沙耶と涼子がお月見をするシーンです。

沙耶はもはや涼子の横顔から、その心情を察することができません。

「遠野さんは、いったいなにを考えているのだろうか。
羽生の町のことだろうか。これから帰っていく町のことだろうか。
それとも……もっとずっとむかしのこと?」

そうして「きれいですか」と主語を抜いてたずねます。

月だけでなく、月を見る涼子の心をも包括した言葉だということが、すーっと入ってくる。素晴らしい台詞です。

小説序盤の「スムーズな意思疎通」があったからこそ、この「分かり合えないもどかしさ」にはより一層の深みが感じられます。

また先述した「永遠への葛藤」にも通じるところがあるでしょう。

恋人と好みも価値観も考えもそっくりだと思っていたのに、それがまったくの幻想だと気づく、というのは多くの人が経験しているところ。

人間とはそもそも分かり合えない生き物であり、それを前提としたうえで、いかに関係を築くかが大事なのかもしれません。

彼らも1週間という時間を共にするなかで、関係性のフェーズをひとつ移行したわけです。

さらに言えば、「分かり合えないもどかしさ」に直面したのは登場人物たちだけではありませんでした。

墓参りの前夜を最後に、唯一の一人称視点だった滋之の語りが消えます。その後の彼の心情については、私たちが自ら予測せざるを得ない。

滋之の存在はまるでマリアのように神格化され、彼が序盤に語った永遠への葛藤とともに、羽生の景色へと儚く溶けてしまいます。

「手が届かないものへの憧れ=ノスタルジー」の最たるものは、もしかしたら永遠に分かり合えない「人の心」なのかもしれません。

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「たまゆらの街」

https://ncode.syosetu.com/n0770gs/


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高梨 蓮
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