エッセイ:徒然にゴールデンロッド
たまの雑文でも良いかと思って書き出した。
終着点は決めていない。
特に隠しているわけではないけれど、高齢の親がいて、ここしばらく対応で忙しかった、いや、現在形で忙しい。
それで、その関連のことをnoteに日記として書いているのだが(このアカウントではない)、その日々の中で、直接的に親や介護のことではなく感じた一部のことを、ただの日記、一応エッセイとして放っておこうと思った。
なんの飾り気もない日記サイトのようなものはほぼ滅びた。
ひとつ良さげかなと思ったものはなんとシンプルすぎて140文字制限だった、この基準はTwitterからかと感慨を抱く。
晴れていた。
今日は暑かった。
車のギアをドライブに入れるのは良い。
アクセルとブレーキはまだ残っている。
が、左足で踏むペダルがなかったり、パーキングブレーキをバーを引くように左手で引く重みがなくなったことに、半年を過ぎたいまでも慣れない。
若いとき、最初に買った車は、窓は手回しのハンドルで開けていた。
今の二十代に電動で開かない窓が普通だったと言ったら信じてもらえるだろうか。
わずかずつ日常の風景が変わる。
都市部ほど多かった電柱と電線は、いつしか中心に近いほど埋設されて、大量の電線こそが田舎の象徴のように認識されるようになったのは平成に入ってからだったろうか。
これを言い出したのは、ここ十年、特に地元に戻ってきて、ごく普通に路肩に、空き地に生える「雑草」の植生が顕著に変わったと感じるからだ。
特定外来生物という言葉がある。
自分が幼いころの風景と植物が、日本古来の物ではなかったことも既に知って、あれだけ繁茂していた背高泡立草が、いつのまにかススキにとって戻され、一進一退を繰り返して、そこにまた見慣れないキク科やイネ科の植物が入り込む。
変化していないように感じるのは、それは我々の日常バイアスの為せる技で、私の若い頃にはスマートフォンどころか、携帯電話も普及しておらず、コンピューターも、まだ映画で壁面一面のサイズがある代物が描写されていたのが、今は小さな板でかなりなことができる時代になって、それが当然の多くの人が感じられる時代になった。
1970年代後半、オイルショックが来て高度経済成長は終わっていたと称されるがまだ日本経済は上り調子で、物流が行き交っていた時代、小学校に上がったばかりの私は、自分の背丈よりも高い背高泡立草が、住宅街の空き地に丈高く聳え、けぶるほど花粉を撒き散らしているのを恐ろしい光景として記憶している。
当時、私の周囲では、その背高泡立草の花粉を吸い込むと喘息になると信じられていた。
今、近所の空き地には、その背高泡立草よりも花が小さく、そばを歩くと重い花粉をぶわりと撒き散らす花が咲いている。
写真のフォルダに、それは撮っていなかったが、イネ科の見慣れない方の写真はあった。
これは私が幼少期見慣れた「雑草」とは違う。
変容が一概に悪と言っているのではない。
慣れ親しんだからと言って愛でている白詰草も秋桜も、元を辿れば意外と浅い時代の外来種だ。
背高泡立草が、原生種が生育している地域ではゴールデンロッドと呼ばれ、ハーブとして使われることもあることを先日知った。
あの当時、恐ろしい勢いで日本中を席巻し、土壌の栄養分を吸い尽くし、毒を巻いて他の植物を枯死させ、喘息を呼ぶ(これは誤解であるらしい)と恐れられた背高泡立草が、ゴールデンロッドで、ハーブ。
これこそ、ところ変われば品変わる実例だとも思った。
変容は起こる。
そして変わらないこともある。
ただ、ほんのわずかに記憶の片隅に眠っていた記憶を掘り起こすようなものを見つけたときには時折書き残しておこうと思う。