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読書感想文:真昼の悪魔/遠藤周作

遠藤周作の真昼の悪魔を読んだ。この小説は随分以前に読んだことがあるような気がする。この小説には共感できるところもあり、出来ないところもある。
貴方が読んだことのある物で言えば、明智抄の「いつでも怒りを」持っている漫画だったか、あれが私には非常によく分かる、理屈でなくその通りなのだ、私はいつでも何かに憤っている、対象が明確であれなかれ。つまりいつでも何かが許せないのだろうが、そのことは、要求される人物像であることとはおそらく相容れない。

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遠藤周作は「純粋な悪」を追求するあまりああいった人物を造形したが、共感したのはむしろ「人並みのことに心動かされない人物像」であるが「それでも乾いた砂漠に水を望むように」動き続けるところにであって、別に悪を働くところにではない。(おそらく貴方とは見ている視点が違うというか、読んでいる部分が違うのだな、と心底思った。同じ物を見ても違う物を見ている。)餓えた心の砂漠に情動を求めて行動を起こす(例えそれが悪でも)彼女は何かを探している、けれどそれが見つかることは生涯ないだろう、決して手に入らない物を望んでいるからには。

(貴方が見たのはディテールであり造形であり物語のあらすじだ。それが悪いと言うことではなく、ああ、それで物事を測るのだなとそう思った、貴方の書き込みを見て。これは攻撃しているのではなく、現実主義者、という言葉の意味を改めて思い知らされた気分がする。)

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 真昼の悪魔には字義以外の意味が、オマージュが、多く含まれている。
 遠藤周作が意図した以上の物が。
 それは遠藤周作が戦争を終わって、なおかつ「日本教」の中にあって自我を自覚させられるキリスト者であったことにも確かに由来するが、遠藤周作がその時代(近現代)に生きてその時代の空気を吸って、そのようにしか書けない、表現できない事物の中にこそ、色濃く体現される。
 赤毛のアンが、時代の良書であると同時に、現代の女性の基準で行けば、紛れもない女性差別支持の本となり得ているように。

 悪を行う、と言う部分を確かに遠藤周作が主に描きたかった部分かも知れない。それは否定しない。「悪を行う」すなわち「『そう言ったこと』と宗教が切り離せない」ことはなんの関係もない。宗教が絡んでくるのは「遠藤周作がキリスト者であるから」であって、物語の中の「悪の発生」とはなんら関係がない。話の本筋で確かに神父が登場するが、むしろあれは神父でないほうが、うち明けられて困るなすすべもない「悪」の近親の女性であるか、「悪」の真実を知ってもなお太刀打ちできぬ夫である方が、一層のリアリティが増したろうと思う。
 しかし私が気を惹かれたのは「富めるが故に貧しき者」であって、悪を行うところなどには全く賛同しない。
 マーク・トウェインとは全く違う、マーク・トウェインは「避け得ぬ災い」であって、「不思議な少年」は例えば震災と変わりない(と私は思う)。そこにあるのは冷酷なまでの事実であって、人はそれにすべなく、まさに平等に襲い来るものだ。
 比較対象にはならないように思う。


(これは10年以上の前、知人との掲示板でのやり取りでの、自分の発言を抜粋したものである。対応の会話となる知人の発言がなければ理解しにくいが、人の分は記録していない。)


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高梨 蓮
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