戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【6月7日~13日】
戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。
6月7日 明智光秀、勅使を接見
天正10年(1582)6月7日(旧暦)、明智光秀(あけちみつひで)は安土(あづち)城において、勅使・吉田兼見(よしだかねみ)の訪問を受けました。兼見は光秀に禁裏(きんり)守護の勅命を伝え、朝廷より預かった巻物等と、兼見個人として大房(おおふさ)の鞦(しりがき、馬具の緒)を贈り、光秀は感謝しています。そのうえで光秀は、謀叛を起こした存念を語りました。
6月8日 上杉景勝、越中へ出陣
天正10年(1582)6月8日(旧暦)、越後(現、新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)は家臣の色部長実(いろべながざね)に通達。本能寺の変による柴田勝家(しばたかついえ)の退陣に乗じ、越中(現、富山県)に出陣することを告げました。同日、中国大返しを行っている羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍勢は、播磨(現、兵庫県)の姫路城に到着しています。
6月9日 光秀、上洛
天正10年(1582)6月9日(旧暦)、明智光秀上洛。吉田兼見を通じて、正親町(おおぎまち)天皇、誠仁(さねひと)親王に銀子(ぎんす)500枚を献上しました。また京都の地子銭(じしせん)を免除し、細川藤孝(ほそかわふじたか)に協力を求めたうえで、夕刻には下鳥羽(しもとば)に出陣します。一方、大返し中の羽柴秀吉は兵庫港に至っていました。
6月10日 斎藤義龍、誕生
大永7年(1527)6月10日(旧暦)、斎藤義龍(さいとうよしたつ)誕生。斎藤道三(どうさん)の嫡男で、父と対立し、討ったことで知られます。義龍という名は最晩年のもので、利尚(としひさ)→范可(はんか)→高政(たかまさ)→義龍と変わりました。美濃(現、岐阜県)国主となってからは姓を一色(いっしき)に改め、織田信長の美濃侵攻を退けます。
6月11日 上杉謙信、上洛を予告
天正4年(1576)6月11日(旧暦)、上杉謙信(けんしん)は小早川隆景(こばやかわたかかげ)に通知。毛利(もうり)領にいる将軍足利義昭(あしかがよしあき)の上意(じょうい)を受け上洛(じょうらく)するにあたり、加賀(現、石川県)、越前(現、福井県)の一向一揆(いっこういっき)と和睦し、出馬する予定であると伝えました。謙信は本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)と和睦したことで、織田信長と敵対します。
6月12日 羽柴秀吉、摂津富田に着陣
天正10年(1582)6月12日(旧暦)、羽柴秀吉は摂津富田(せっつとんだ)に着陣。明智軍と羽柴軍先鋒との小競り合いが起こります。秀吉は池田恒興(いけだつねおき)とともに中川清秀(なかがわきよひで)、高山右近(たかやまうこん)らと今後について相談。一方、明智光秀は秀吉軍に備えて山崎方面に布陣、雑賀(さいか)衆の土橋平尉(つちはしへいのじょう)に書簡を送りました。
6月13日 山崎の戦い、光秀討たれる
天正10年(1582)6月13日(旧暦)、山崎の戦い勃発。円明寺(えんみょうじ)川を挟み、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が16時頃に激突しました。光秀軍は沼地の隘路(あいろ)を塞(ふさ)ぎ、秀吉軍の数の利を封じますが、側面を崩され敗退。その夜、近江(現、滋賀県)の坂本に向けて退却中に、光秀は小栗栖(おぐるす)で討たれたと伝わります。
【6月の戦国武将生没日】
6月2日・織田信長没
6月2日・織田信忠没
6月2日・森成利(蘭丸)没
6月2日・村井貞勝没
6月2日・斎藤利治没
6月2日・三村元親没
6月3日・鍋島直茂没
6月4日・真田昌幸没
6月4日・清水宗治没
6月4日・伊達成実没
6月5日・島津家久没
6月8日・安藤守就没
6月10日・斎藤義龍誕生
6月12日・小早川隆景没
6月13日・明智光秀没
6月13日・溝尾茂朝没 異説あり
6月13日・松田政近没
6月13日・竹中半兵衛没
6月14日・毛利元就没
6月14日・明智秀満没
6月16日・阿閉貞征没
6月17日・斎藤利三没
6月24日・加藤清正誕生
6月24日・加藤清正没
6月24日・可児才蔵没
6月24日・温井景隆没
6月28日・真柄直隆没
6月28日・真柄直澄没
6月28日・遠藤直経没