ミッドウェーで主力艦隊はなぜ後方にいたのか
太平洋戦争の分岐点になったといわれるミッドウェー海戦。
虎の子の空母4隻がすべて失われるのを、日本の主力艦隊は
はるか後方で手をこまねくしかなかったのはなぜなのか。
空母は主力と考えられていなかった
一昨日の「太平洋戦争の『たられば』」の記事で、ミッドウェー海戦時、山本五十六司令長官の乗る戦艦大和以下の主力艦隊が、機動部隊のはるか後方にいたのはなぜかについて、リクエストを頂きましたので、本日はそれをテーマにしてご紹介します。
昭和17年(1942)6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦において、日本の連合艦隊が誇る機動部隊は、アメリカ海軍の機動部隊に待ち伏せされ、虎の子の空母4隻を失う大敗を喫し、これが太平洋戦争の大きな分岐点になったといわれることは、ご存じの方も多いと思います。
ミッドウェー海戦では日米の機動部隊が激突していますので、私たちは空母こそが主力艦であろうと考えます。実際、真珠湾攻撃以来、日本海軍で大きな戦果を上げ続けたのは南雲忠一(なぐもちゅういち)中将率いる空母機動部隊、いわゆる南雲機動部隊でした。
しかし、実は当時、日本もアメリカも、空母を主力とはまだ考えていませんでした。正確には、真珠湾で大打撃をこうむっただけに、アメリカの方が、空母の重要性に気づき始めていたかもしれません。
もちろん日本でも山本五十六連合艦隊司令長官のように、早くから航空兵力の重要性に着目し、真珠湾攻撃を航空機で行う決断を下す人物もいました。しかし圧倒的多数の海軍軍人は、海軍の主役はあくまで戦艦であり、戦艦同士の艦隊決戦によって勝敗が決すると考えていたのです。かつて日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った、日本海海戦のイメージでした。
だからこそ、航空兵力を最も理解する山本長官であっても、自らが司令部とともに乗るのは空母ではなく、戦艦大和でなければ、大多数の将兵が納得しなかったのでしょう。
それにしても、連合艦隊は総出撃といってもよいほどの規模でミッドウェーに向かいながら、なぜ機動部隊(空母4隻)と行動をともにしたのは、2隻の戦艦、2隻の重巡洋艦、1隻の軽巡洋艦、12隻の駆逐艦のみで、大和を含む戦艦7隻をはじめ「主力艦隊」ははるか後方を進んだのでしょうか。それには大きく2つの理由があったようです。
空飛ぶ水雷戦隊
まず1つ目は、日本海軍の艦隊決戦構想の基本パターンに由来するものです。
これは日露戦争の頃からそうなのですが、日本海軍が艦隊決戦を行う際は、まず水雷戦隊(高速の駆逐艦)による魚雷攻撃で敵艦隊の戦力を削いでおいた上で、主力艦隊が決戦を挑むという「漸減(ぜんげん)作戦」でした。
特に大正10年(1921)のワシントン会議で日本海軍の主力艦は対米6割に抑え込まれてしまったため、アメリカと互角に戦うには、漸減作戦は必須であったのです。
そうした中、日本海軍では大正11年(1922)に世界初の空母鳳翔(ほうしょう)が完成し、また同年、一〇式艦上雷撃機も登場します。
空母の役割とは、航空機による偵察を行い、また敵艦への弾着観測をするというのが世界共通の認識でしたが、日本海軍では航空魚雷を積んだ雷撃機を空母から発進させることで、敵艦隊にダメージを与えられるのではないかという発想が生まれました。
それが可能になれば、水雷戦隊が敵艦隊に魚雷攻撃を行う前に、空母から発進した航空機による攻撃をもう一段階加えることができ、主力艦隊による艦隊決戦の前に、敵艦隊の戦力を2~3割減らすことができるかもしれないと考えたのです。
つまり空母はいわば「空飛ぶ水雷戦隊」であるという認識が、日本海軍の中に定着していくのです。これが日本の空母機動部隊の原型でした。
「空飛ぶ水雷戦隊」であるがゆえに、ミッドウェー作戦においても機動部隊は主力艦隊の前方を進み、航空攻撃によって敵艦隊に一定のダメージを与えたところで、戦艦を中心とする主力艦隊が登場して、敵艦隊を殲滅するというシナリオが描かれたのです。
こうした発想は、軍縮条約で主力艦を制限されてしまった日本海軍の苦肉の策であったわけで、主力艦が制限されなかったアメリカでは、空母はあくまで偵察などの補助艦艇の意味合いが強かったようです。その後、アメリカでも空母艦載機が登場し、航空攻撃も可能になりますが、日本のように空母を集中運用するという発想には至りませんでした。
なおイギリスでは第二次大戦時、敵国のドイツやイタリアの海軍が脆弱(ぜいじゃく)であったため、空母はあくまで艦隊護衛に用いています。ドイツやイタリアには艦上戦闘機もありませんでしたから、日米が戦った太平洋戦線とはまったく様相が異なりました
敵に逃げられないために
二つ目の理由は、日本海軍の「驕り」ともいえますが、主力艦隊の威容を決戦まで敵に隠し、敵に逃げられないようにするためであったといわれます。
出撃前、大本営海軍部の作戦課長富岡定俊大佐は「この作戦で最も恐れることは、敵がわが艦隊を避けて出撃しないことである」と述べました。
半年前の真珠湾攻撃によって敵の主力戦艦が大きなダメージを受けたことは明らかですが、あるいは破壊を免れていたり、ダメージが少なくてすでに修理を終えた戦艦もあるかもしれません。そうした艦や、真珠湾で討ちもらした空母も含め、アメリカ太平洋艦隊のことごとくをミッドウェー海域に引きずり出し、殲滅するのがねらいでもあったのです。
また、特に最新鋭戦艦の大和を、敵の主力が現われるまではできるだけ隠しておきたいという心理も働いていたようです。これも、容易には新鋭艦を建造できない「持たざる国日本」の悲しさといえるのかもしれません。
いずれにせよ、アメリカとの国力の差がありすぎる中で、日本が勝機をつかもうとすれば、この時、ミッドウェー海戦で圧勝するしかなかったでしょう。時間が経てば、アメリカの工業力は新たな戦艦や空母を続々と建造し、戦力差は開く一方になるからです。それを知っているからこそ、山本長官は連合艦隊総出といってよい規模で決戦を臨んだはずでした。
しかし結果は、「空飛ぶ水雷戦隊」の空母機動部隊はすべて沈められた上、敵艦隊は引き上げてしまいました。連合艦隊はなすすべもなく、日本に引き返すしかなかったのです。
ミッドウェーで失ったものは、虎の子の空母4隻だけでなく、日本にとって唯一の勝機であったといえるでしょう。ミッドウェー海戦からは、今でも学ぶべきものが多いはずです。
参考文献:淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』 他
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