石田三成はなぜ、悪者にされたのか? 歴史を記す側の裏事情
石田三成という武将を、ご存じの方も多いでしょう。天下分け目の関ヶ原合戦の折、東軍を率いた徳川家康に対抗し、西軍の中心となって戦った人物です。しかし三成の評価は、最近でこそ名誉回復されつつありますが、江戸時代以降、長い間、「佞臣(主君にへつらう、心のよこしまな家臣)」として扱われ、貶められてきました。今回は、史料が事実を伝えているとは限らないことの一例として三成を取り上げ、その実像を探った記事を紹介します。
史料はどこまで事実を伝えているのか
「歴史は勝者によってつくられる」といいます。たとえば鎌倉時代に編まれた鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』は、為政者である北条氏に都合の悪いことは言及せず、明らかな曲筆があることも指摘されます。そうした傾向は『吾妻鏡』だけではありません。そもそも一般に正史と呼ばれるものは、あくまで「王朝や政権が正しいと認めた歴史書」という意味であり、一定の信頼性はあるものの、すべてを鵜呑みにしてよいわけではないとされています。
史料についてもう一つ触れておくと、史料には一次史料と二次史料が存在します。
一次史料とは同時代に発給された古文書や日記、金石文(金属器や石碑、墓碑、岩などに鋳刻または彫刻された文字や文章)などを指し、史料的価値は高いとされます。これに対して二次史料は、系図、家譜、軍記物語など、後世に編纂された史料です。そこには、作成者の意図や創作が加わることが珍しくなく、史料的な価値は劣るとされます。もちろん二次史料に全く価値がないというわけではありませんが、それが生まれた背景をきちんと押さえた上で検証する必要があり、記述をそのまま事実ととらえるのは危険とされているのです。
三成の悪行は何に記されていたのか
さて、三成が「佞臣」とされたのは、彼のさまざまな悪行に起因しています。主なものとして「千利休の切腹」「蒲生氏郷の毒殺」「豊臣秀次の切腹」などが挙げられます。詳細は記事をお読み頂くとして、問題はこれらが何に記載されていたか、でしょう。その出典は、『氏郷記』(成立年代不明、一説に寛永年間〈1624~45〉)、『続武者物語』(延宝8年〈1680〉成立)、『日本外史』(文政10年〈1827〉成立)などでした。つまり三成が関ヶ原合戦に敗れて処刑された慶長5年(1600)から、数十年~200年以上も経って書かれたものばかりなのです。
果たして、それらは本当に事実を伝えていたのでしょうか。ぜひ和樂webの記事「実はいい奴だった? ねじ曲げられた武将・石田三成の素顔に迫る」をお読みください。
三成はなぜ悪者にされたのか
記事はいかがでしたでしょうか。三成が徳川幕府の都合によって、意図的に人物像をねじ曲げられていたことがおわかり頂けたかと思います。
それにしても、なぜ三成が貶められなければならなかったのでしょうか。歴史学者の小和田哲男氏によると、江戸時代に入って、盛んに徳川家康の伝記が書かれたことと密接に関連しているといいます。つまり家康を持ち上げる以上、前政権である豊臣政権を悪者として描かなくてはなりません。となれば、本来は太閤秀吉こそ悪く描かれるべきところ、秀吉はすでに『太閤記』が流布していて、庶民に人気がありました。そこで秀吉の代わりに悪者に仕立て上げられたのが、三成であり、秀吉亡き後に大坂城を仕切った淀殿であったというのです。確かに淀殿は最近まで「淀君」と呼ばれていましたが、君とつけるのは遊女に対する蔑称で、意図的に貶めた呼び方だとする見方もあります。
このように、史料に書かれている内容が、為政者の都合などで事実をゆがめられたものであることは決して珍しくないようです。特に歴史上、敗者となった側はその傾向が強いでしょう。石田三成も、意図的につくられたイメージを取り外さなければ、実像には迫れないのかもしれません。次回は、三成の子孫に関する記事を紹介する予定です。
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