天海は明智光秀だったのか
本能寺の変で、主君織田信長を討った明智光秀。
戦国史を変えた謀叛人として知られるが、不思議な伝説もある。
徳川家康の参謀・南光坊天海の正体は、光秀だったというものだ。
信長家臣きっての名将は謎だらけ
本能寺の変を起こしたことで有名な、明智光秀。謀叛人のイメージが強いですが、近年、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれたように、織田信長の信頼篤く、家臣の中でも出世頭でした。ところがその一方で、非常に謎の多い人物でもあります。
まず前半生がよくわかりません。美濃(岐阜県)の出身で、名族土岐氏の流れだといいますが、そもそも生年がわからない。だから年齢がわかりません。少なくとも、織田信長よりは年上であるようです。しかし、信長に仕える前、どこで何をしていたのか、軍記物にはさまざまに描かれていますが、確実な史料はありません。
次に信長に仕えてからの事績はかなり明確ですが、戦国史上の大事件である「本能寺の変」を起こした動機が謎です。単独犯行説、黒幕が存在するという説、いろいろな説がこれまで唱えられ、最近の研究者の間では黒幕説はほとんど否定されるようになりました。しかし、単独で信長を討ったとしても、動機が今一つ不明確なのです。
そして、謎めいているのが、光秀は本能寺の変の10日後の山崎の戦いに敗れ、敗走中に討たれたとされていますが、実は生存していた。そして徳川家康のブレーンとなった黒衣の宰相・南光坊天海こそが、光秀その人であるという不思議な説が流布しているのです。
なぜ、そのような奇説が伝わるのか、非常に興味深いところであり、いずれじっくり探ってみたいと思っていますが、今回は光秀=天海説のあらましをご紹介します。
光秀との接点はほとんどない天海
天台宗の大僧正で、慈眼大師の諡号を贈られた天海。その生涯ではっきりしているのは、100歳を超える長寿を保ち、寛永20年(1643)に没したこと。
徳川家康とは天正17年(1589)に初めて出会い、その翌年に天海と名を改めて、以後、極めて親密な間柄になっていったこと。
家康の死に際しては導師を務め、東照大権現の諡号決定に大きな役割を果たし、江戸上野の寛永寺を創設して山号を東叡山(東の比叡山)に定め、自ら第一世になったこと、さらに日光東照宮造営にも大きく関わったこと、などです。
それでは天海と称する前の足跡はどうでしょうか。
天文5年(1536)頃、陸奥国高田(現在の福島県会津美里町)の生まれで、若くして出家し随風と名乗ったといわれます。比叡山で修行中の元亀2年(1571)に織田信長の焼き討ちにあい、甲斐(山梨県)の武田信玄を頼って庇護されました。
その後、蘆名盛氏に招かれて黒川城(現在の会津若松城)の稲荷堂に入り、さらに上野国を経て、天正16年(1588)に武蔵国仙波(現在の川越市)の北院(後に喜多院)に移り、豪海に師事しました。
慶長4年(1599)には北院の住職となり、その頃には家康の参謀役も務め、朝廷との交渉や、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件でも暗躍しています。
こうして見ると、比叡山焼き討ちに光秀が参加していた以外に、天海と光秀の接点はほとんどなかったことがわかります。
不審な点の多い光秀の最期
一方、明智光秀はどんな死に方をしたのでしょうか。
天正10年6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は、その夜、居城である近江国(滋賀県)坂本城に戻ろうとわずか十数騎で小栗栖の竹林の中を進んでいたところ、突然突き出された土民の竹槍に脇腹を突かれて致命傷を負い、その場で自刃したことになっています。
光秀の首は家臣の手によって付近に埋められますが、秀吉はそれを探させて掘り出し、首をさらしました。かくして光秀の死は公のものとなったはずでしたが、これについては不審な点が多く、実は光秀は死んでいなかったのではないかという根拠となっているのです。
不審な点は、まず光秀主従を襲ったのが落ち武者狩りの土民だとして、なぜ彼らはピンポイントで光秀だけを竹槍で刺すことができたのか。光秀の他の家臣も討たれたという話や、家臣らと土民が争ったという話は伝わっていません。
そもそも一軍の将である光秀の頑丈な鎧を、土民の竹槍程度で深く刺すことができたのか、という疑問もあります。
また光秀が討たれたとして、主君の首を土民たちが襲ってきた場所に埋めて、立ち去る家臣がいるでしょうか。
こうした疑問から、秀吉がさらした首は光秀本人のものではなかったという話も生まれることになりました。また光秀の首が非常に高い場所に置かれ、見物人からは誰の首だか判別できなかったという伝承もあります。さらに光秀の首塚は、なぜかあちこちに存在しています。
一方で、小栗栖で死んだのは光秀の家臣・荒木山城守で、光秀は美濃山中の中洞に隠棲し、荒木又五郎、または荒深小五郎と名乗って、世に出る機会を窺ったという伝承が残ります。中洞にも、光秀のものとされる墓があります。
なぜ春日局が登用されたのか
たとえば源義経にしろ、真田幸村(信繁)にしろ、英雄不死伝説は文字通り、誰もが認める英雄について回るものです。光秀は果たして、誰もが認める英雄でしょうか。当時の倫理観に照らしても、むしろ主君殺しの反逆者であったはずです。にもかかわらず、光秀は生きのび、家康の参謀になったとなぜ後々まで語られるのか。
天海が光秀であるという確証はもちろん存在しません。あるのは状況証拠ばかりです。
「随風と称していた頃の天海が何かの事情で急死し、光秀はそこで天海に入れ替わり、家康に近づいたのではないか」と、作家の故中津文彦さんは大胆に推理しました。
「信長の仇討ちと称して自分を破り、まんまと天下をかすめ取った豊臣秀吉。その豊臣家をいつかは倒したいと願う徳川家康に光秀は近づき、参謀となって力を貸したのではないか」。そうした推理も可能ですが、もちろんあくまでも推理です。
ただ、天海が光秀だったとしたら、納得できることもあります。それは3代将軍となる徳川家光の乳母に、公募のかたちでお福という女性を登用した事実です。
実はお福は、光秀の右腕で縁戚でもあった斎藤利三の娘でした。当時、お福は稲葉正成の妻でしたが、乳母になるために離婚までしています。もし、天海がぜひお福を家光の乳母にと望んだのであれば、公募でお福が選ばれたこと、またお福が離婚までしてこれに応えたこともつじつまが合うのです。
そもそも家光の母親・江は、織田信長の妹・お市の娘。息子の乳母に、伯父を殺した光秀の縁戚であるお福を簡単に迎えるはずがありません。そうした意味では、天海がもし光秀であったとしても、その正体は限られた人間にしか明かされていなかったのかもしれません。ちなみにこのお福が、後に江戸城に大奥をつくり、将軍家光を支えることになる春日局です。
他にも比叡山には「慶長二十年二月十七日、奉寄進願主光秀」と刻まれた不思議な石灯籠が存在します。慶長20年(1615)2月といえば大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ直前です。
また日光の明智平は天海が命名したもので、その理由を人に問われると「明智の名を残すため」と答えたという話もあります。
いずれも状況証拠であり、研究者で光秀=天海を論じる人はいません。しかし、奇妙な符合があるのは事実であり、なぜこうした話が生まれたのか、その背景を考えてみるのも面白いかもしれません。
私は以前、大津市の坂本を訪れた際、天海の廟所・慈眼堂の目と鼻の先に、光秀の居城だった坂本城跡があることに、なんとも不思議な感じがしました。年齢的に光秀=天海は難しいとは思いますが、光秀の息子などの近親者ならば、可能性があるのかもしれないと考えたりもします。
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