「平等」の形
■はじめに
皆さんは、「平等」と聞くと、どういうものを思い浮かべるでしょうか?
私は、男女の「平等」には、以下の3つのタイプが浮かびます。(I + II → I, I + III → III, II + III → III とします)
I.採用人数を男女同数にする
II.あえて人数比は1:1にせず、少数にする側はあらかじめ精鋭に絞ったうえで、同じ仕事をさせ同じ額の給料を支払うような待遇にする(扱いを同じにする)
III.身体的・精神的負担を男女それぞれで天秤にかけ、トータルすると釣り合うようにする(役割分担主義)
昨今、平等に関しては I が尊ばれているのが見受けられるかと思います。大学医学部の得点操作が批判されたり、大手商社が新卒採用の男女比を1:1にすると宣言したりという動きがあったりしました。
しかし、それは非合理的だと考える人も少なくはないと考えられます(だから炎上するわけで)。私もしばしばそう感じます。
■I型
I型は、先に述べた通り、最も「平等」と感じやすいかと思われます。1:1という、「分かりやすい」データがあるからです。男女平等の世界ランキングも、しばしばこの指標が使われ、いわゆる "フェミニスト" を気取る人たちはこれを持ち出す傾向があるように見受けられます。
今日の世界で男女平等を主導しているのは主に、いわゆる北欧諸国とイスラエルかと考えられます。働き方や兵役において、性差を無くそうという動きになっているのが見受けられます。
しかし、これで成功した例もあれば、綻びが出た例(資生堂、フィンランド(?))もあります。
■II型
II型は、性差による向き・不向きが出やすい職業における採用活動でしばしばとられる方式かと考えられます。
例えば、"男社会"なら「警察官」や「自衛官」や「大工」といった職業、"女社会"なら「看護師」や「CA」といったものです。
これらの、マイノリティとならざるを得ない(さすがに仕方ないと思われる)側の人間像が、しばしばドラマになっていると考えています(特に朝ドラ)
男性がマイノリティとなって奮闘するドラマも最近では作られるようになりましたよね。
■III型
III型は、20世紀までは世界各国で普通に行われていたものだったと考えています。なぜなら、特に冷戦終結前までの世界各国は、一部では「軍事国家」の顔をしなければならなかった(これを捨てたら外国に征服されてしまう)からです。古代のギリシアなんかでは、アテネ(男社会)がアマゾネス(女社会)を征服したというエピソードを神話に盛り込み、男社会を大義名分としたということもありました。
その枠組みの中ではさすがに、I型の声は通りにくかったと考えられます。また、国によってはII型をする余裕もあまり無かった(II型をとったのは、ソ連くらいかと)といえるでしょう。
「男は外で働き、女は家を守るべき」という考え方もIII型です。家事の割合の大きい方を「主 "婦"」と書かれるのが一般的だと、女性はどうしても稼ぎが少なくなってしまい、この観点にばかり気を取られると「男尊女卑」と感じてしまう人もいることでしょう。
しかし、「それは一面的な見方でしかない」、「男だって滅茶苦茶苦労している」という切り返しをしたくもなりますよね?世の男性方。
■これらを踏まえて
いかがでしょうか?これらは全て、目に見えようが見えまいが、「平等」と私は考えるのです。
あなたの理想とする平等論は、I、II、IIIのどれでしょうか?
私は、基本的には II が良いかなと考えています(フィールドによっては I が良い場合もあると考えている)。それは、IIIであるがために男性社会に "軍隊" の文化が、女性社会に "大奥" の文化が固定化されてしまう(IIIではこういうのが大義名分にされる)と、今や失うものが多いと考えるからです。また、IIをやるにしても、裏でコソコソ何かを操作をするのではなく、堂々とやるのです。例えば、医学部入試に、「体力テスト」を設け、一切のハンデなく得点を付けるといったものです。
でも、IIをするときにどうしても聞き捨てならない一言があります。それは、「男だろ!」という一言です(「女だろ!」って言ったら女性蔑視になるのは一方的すぎませんか?)。だって、そもそも男には昔から色々なタイプがあったではありませんか。公家なんかは基本的に草食系だったではありませんか。IIになっていなかったことの悲劇として、会津戦争での西郷頼母一族の悲劇があると考えています。会津の農民がこぞって新政府軍に投降してしまったことで食糧確保が難しくなった旧幕府方の重鎮の間で、女性だけが集団自決をしたという悲劇です。
「女性に優しく」するようにと、小さい頃から大人たちに言われて育ったかと思います。でもそれは、「女性に甘く」という意味にもなり得たと感じませんでしたか?私は、本来男女合同の組織が、男女別に何かイベントが行われるときに、どうしても女子たちが "慰め合い" をしているようにしか想像できなかった(本当のところはどうなのかは分からないし秘密も多いと思われるが、少なくとも男子の集まりはドン引きされるくらいえげつなかったと感じている)のが、今なお "もやもや" しています(あれは、IIIの意思表示だったのかなと)。また、男子には簡単に責任の一環で坊主刈りを要求する指導者が多いと思います。この点においても女子はやはり甘いと思ってしまうのです(これはそもそも、坊主刈りの刑というのが古いと考えている)。「次来る電車が満員電車になりそうなら女性はなるべく女性専用車両に乗りましょう」的なマナーがなぜできなかったのかも私は疑問に感じています。
皆さんも、例えば、橋本聖子東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当大臣が、酔った勢いで髙橋大輔選手にキスをしたという事件で、セクハラ認定されなかった(逆は悪意が無くても容赦なくセクハラになるが)件や、人気モデルのラブリが女性にわいせつ行為をした事件が報じ "られなかった" 件に関してもやもやするかと思います。有名人の例だけではありません。いつもは女性をお先にお通しするように叩き込まれますけど、危険やリスクを伴うものでは男性が先に行けと叩き込まれる(安全性を確保してあげるという保護意識)というのが、"男に下駄を履かせる" のと引き換えになっている(別に、タダで履かせてもらえているわけではない)と感じませんか?
「男性が女性にきつく当たるとそれだけでも暴力的とみなされる(女性特有の事情に関しての知識がどうしても足りなくなってから忖度しようという風になる)、つまりは、女性は女性が育て上げた方が良いということになる」、この現実に気付いている女性も少なからずいるはずです。だからこそ、特に平和な時代に、「大奥」が用意されるのではないかと私は考えています。「看護師」や「CA」を、「現代版大奥」として機能させ、聖域としたい女性も少なくないのではないでしょうか(ただ、これでは女社会のII型は進まないですが)?
しかし、グローバルスタンダードとしては、「社会に出てから "大奥" をする」のでは遅いということになっているのは明らかです。さらには、女性が社会に出る前に "大奥" あるいは "アマゾネス" をする機会は、女子校の「共学化」も進んでいることから、次第に減らされています(また、今や女子大に "大奥" があるのかどうかも微妙な気がします)。もしかすると、III型は一応理にはかなっていると考えているも、III型の枠組みの中で "保護" される対象と認識される女性たちには、"大奥" が使命づけられることが暗黙のルールのようになるというのが受け入れられないからII型を求めている女性もいるかもしれません。私が女性ならそうなっていると思っています。江戸時代の大奥のように高給が支払われれば、それもありと考える人も増えるのでしょうけど。しかし、資本主義社会においてはそういうのはあまり尊ばれていないようです。
こうなったらもう、女性自身の手でこの社会矛盾を是正するしかないのではないか("守られ" 要素(「男性が費用を肩代わりしてくれる」とか、「男性が力仕事を何でもしてくれる」とか、「泣くとか甘えるとかが特権として認められる」とか)が1つや2つ減ることを承知してでも)と、私は考えています。これが起こらないうちは、女性にばかりあらゆる負担を押し付けられる現実は、続いていくということになるはずです(良いこととは思いませんが)。II型を選んだのに都合良くIII型の常識を持ち出したら、"平等" ではなく "優遇" です。例えば、映画等のレディースデーより必要なのは、低所得者デー(性別問わず、証明できるものがあれば適用するとして)ではないでしょうか?
正直、今や男性も、「キャリアアップのための自己投資」と「異性にモテたいがためのおしゃれ」と「将来子供を大学院にまで通わせてあげられる費用」と「自分が安心して老後まで全うできるための貯蓄」と「愛する人の欲求を満たしてあげられるくらいの経済的余裕」を、一切借金せずに全て併せ持つことはできないのです(併せ持っていて欲しいでしょうし、併せ持ちたいですけど)。「肉食×草食」はリスクが高すぎると感じています(特に、男性から女性にアプローチだと、思いもよらないことでセクハラ認定されるかもしれない)。「草食×植物」が現実的かと思います。
また、世間のブームに水を差すようで大変申し訳ないことですが、昨今叫ばれる「女性の活躍」の一例を「虹プロジェクト」として本当に良いのでしょうか?朝ドラを見た後に日テレに変えていた世の女性方は、あれに疑問を感じなかったでしょうか?
J.Y.Park氏を否定するつもりは全くありません。彼は男性アイドルもプロデュースしていますし、男性版虹プロジェクトも計画していると公言していました。しかし問題は、「女性が活躍するためには、まずは男性に認められなければ先へ進めない」という現実を大手テレビ局が視聴率稼ぎのために見せていたという所にあります。つまり、「大手商社が新卒採用の男女比を1:1にする」ようなことに部外者が警鐘を鳴らさなくても済むような世の中にするためには、「女性プロデューサーの奮闘記」系の企画をしていく必要があるのではないかということです。
他にも、"女性版SASUKE" という位置づけで「KUNOICHI」が企画されるのはまだ理解できる(普通のSASUKEだけ落下先を泥水にする(それも、途中から露骨に泥水化させた)のは納得し難いが)はずですが、"女性版M-1" のような位置づけ(ピンでもコンビでも、漫才でもコントでも良いことにはなっているが)に「THE W」を用意する必要があったかどうかには少なからず疑問に感じています。お笑い対決は男性有利という暗黙のルールがあったということでしょうか(それなら問題ですが)?
また、「女子学生の "理系" 学部への進学率」も平等指数としてしばしば取り上げられています。「女に数学は要らない」という忠告を泣く泣く聞かされた人は多い(中には、自分が本当に進みたい進路を諦めた人もいるでしょう)と思われます。確かに、生物学的には、女性に理系に不向きという研究結果も出てはいます。しかし、「女に数学は要らない」に対する上手い返しがあることを私は知っています。それは、「男に "語学"」は要らないというものです。語学は、女性に向いているという研究結果があります。それで逆ギレをする大人がいたとすればそいつは、「女に "学" そのものが不要である」という「差別」思想を、"数学" という、言われた側がつい受け入れてしまいそうな分野に転嫁していたということだと、私は考えます。
それから、男女平等が進んでいるような国でも、「男子向け」/「女子向け」のカリキュラムが考案されているようです(生物学的な♂♀の性別にウソはつけないからということなのでしょう)。「男性的」「女性的」という概念はさすがに残るでしょう。ただ、この国ではまだ「泣く」とか「甘える」が "女性的" とされているのは明らかに問題と考えています。この性差を無くさない(どう転んでも良いと考えている)と、I・IIはおろか、IIIも怪しくなるかと考えています(良くないことですが)。それも、その不都合が女性の手で行われることもあり得ると思います。
最近、『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマで、こういった社会矛盾が片っ端から取り上げられ、様々な共感を呼びました。また中には、理想論すぎるという声もありました。私はこの『逃げ恥』が、「だからドラマになる」と結論付けられたくはありません。
そのためには、世の中で「当たり前」とされていることは、その人その人の「個人的な考え」にすぎないかもしれないと思う姿勢が大切かなと考えています。「誰かにとってのおしゃれは誰かにとっておしゃれじゃない」と歌っていた人がいたのも、これに近いと考えています。皆さんは、どんな世の中を理想としますか?
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