100年目の、彼女の決断ー『ここはすべての夜明け前』は、2024年ベストミラクルブック
好きな本はたくさんあれど、抱きしめたいほど手放せない一冊、なんていうのは滅多にない。
だから出逢えば特別、それは本の当たり年だ。
2024年はまさに当たり年になってしまった。
その本こそが間宮改衣著の『ここはすべての夜明け前』である。
ベストブック2024ならぬ、ベストミラクルブック2024。
これは“老いなき機械の身体”にさせられた、[わたし]の運命を辿る物語。
永遠の25歳として九州の山奥でひっそり生きる、[わたし]の恋と懺悔と再生の、あっという間の100年間。そんな人生の物語である。
『ここはすべての夜明け前』は第11回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作。
だけどSFという先入観をちょっと捨て、普通の文芸作品として読んでも遜色ない。
私は読み終えてページを閉じた途端、
あしたを生きることが無性に嬉しくなってしまった。
人生でたったひとつでいいから、
自分は間違っていないと思うことがしたくなった。
再読しても再読しても、なぜか涙が出てきてしまう。
安っぽいお涙ちょうだい物語じゃないはずなのに。
この本は特別だ。
単行本で100ページちょっとの中篇は、けっこうすぐに読み終わる。そんな短い時間なのに、読む度に心がグシャグシャになる。
だからベストブックならぬ、ベストミラクルブック2024なんである。
ざっくりした書評記事ならここで終わってもいいのだけれど、ベストミラクルブックだからもっともっと物語の面白さに触れていきたい。
具体的なネタバレまでは記さないが、ここから本書の魅力をギリギリまで伝えていこうと思う。
物語と文体の魅力 [わたし]のつたないひとり語り
この本は、主人公[わたし]の書いた“家族史”である。
[わたし]は101年前に融合手術(身体を機械化する手術)を受け、歳をとらない“永遠の25歳”にさせられた。
父親の歪んだ愛情から逃れられず、兄や姉からは疎まれ、仲良しなのは甥っ子のシンちゃんただひとり。
そんな家族たちも次々亡くなり、最後にシンちゃんを見送り、とうとうひとりぼっちになってしまった。
おしゃべりする相手がいなくなった[わたし]は、誰かに話すようにして家族史を記そうと思いつく。
融合手術のこと、父や兄や姉たちのこと、シンちゃんとの恋のこと─。
家族史(この本)の文体は個性的だ。
[わたし]が思いつくままおしゃべりしている感じで記されている。手書きのため、漢字は面倒だからとひらがなばかり。
一風変わったこの表現は、最初はかなり読みづらい。
ひらがなばかり、句読点も不自然で、まるで小学生の日記のよう。
スラスラ読めずに難儀するも、4〜5ページも読めば慣れてしまう。
気づけばこの文体にハマっているという、不思議な魅力。
おしゃべりや呟きのような文章は、[わたし]の状態をダイレクトに映し出している。
だからときおり、ハッとするようなことばや気持ちの吐露に打ちのめされてしまうのだ。
物語の核心は、甥っ子シンちゃんとの関係性
[わたし]はいつも受動的で、どこかに感情を置き忘れたようなところがある。融合手術で脳の大部分が電脳化された所以なのか、そもそも父親からの性的虐待で身心ともに虚弱になったことが原因なのか。
兄や姉たちからは、父親との関係が気持ち悪いと嫌悪された。[わたし]に笑いかけてくれるのは、甥のシンちゃんただひとり。
[わたし]は姉の赤ん坊・シンちゃんの世話をすることで一心に愛情を注いできた。シンちゃんも[わたし]を慕い、二人は愛情を確かめ合う共依存のような関係になっていく。
伯母と甥でありながら、シンちゃんの成長と共に二人の関係は恋人同士に変化していく。
なにしろ[わたし]は永遠の25歳。ずっと可愛いままの25歳なのだから。
物語の転換と緊張 自我への目覚め
機械の身体になった[わたし]と生身のシンちゃんとの恋は、SFならではの設定だ。心が通うゆえの、いや、心だけが触れあう異種体との恋。伯母と甥という関係もさることながら、この恋のもどかしさは甘く切なく、どこまでも悲しい。
[わたし]はシンちゃんが40歳のとき、ある出来事のせいで厄介な自我に目覚めてしまう。それは……途方もない「罪悪感」だった。
一体何が起こったかは、未読の方のために伏せておこう。
それから60年─。
シンちゃんが100歳を目前にして亡くなった。ひとり残された25歳のままの[わたし]は、初めて自分の正直な気持ちをことばにする。
シンプルなことばの裏に漂う、苦悩や寂しさ、恨み、憤り、大きな後悔。
[わたし]の隠れた心が露わになると、読みながら酸っぱい感情が込み上げた。
[わたし]の苦悩が読み手側にも伝播し、心が嵐のようにざわつき始める。
この物語の深い部分に、一気に落とし込まれてしまったのだ。
[わたし]の再生、人生への問いかけ
融合手術を受けてから100余年間、[わたし]は自分が人間の心すらなくしてしまったと思っている。
果たしてそうだろうか。
[わたし]の自我は、人間であることの証しではないか。
[わたし]は深い後悔と懺悔を受け入れ、自分がどうすべきだったか、これからどうすべきかを逃げることなく考えた。
そして過去の映画の記憶を取り出して、これからの自分を委ねようと決心する。
この言葉は、ブレンダン・フレイザー主演の映画『ザ・ホエール』のラストのセリフだ。
I need to know that I have done one thing right with my life!
ほかにもボーカロイド曲『アスノヨゾラ哨戒班』から受けた感銘や、将棋の永瀬拓矢【電脳線FINALへの道】(YouTube)などの記憶が総合的な希望となり、[わたし]の明日への背中を押している。
YouTube Orangestar チャンネルより引用
アスノヨゾラ哨戒班 (feat. IA) Official Video
[わたし]は自己を真っ直ぐ見つめることで初めて居心地の良さを獲得した。それがどれほど過酷なことであろうとも。
大切なのは、自分が間違っていなかったと思える確信なんだろうな。
本のページを両手で押さえ、ふと考えた。
そんなふうに思えることが、自分の人生にいったいいくつあるだろうか。
いや、これからだってつくっていける。
「今」がこれから。人生は「今」の連続。
100年以上生きた[わたし]は今、朽ちても笑顔で歩き始めているんだろうな。
読み手に投げられたラストのひと言が、迷いもなくてキラキラしているから。
だから私も、いつまでも手を振り返す気持ちでこの本を閉じる。
それじゃあね。
了
〜本文欄外記述 補足情報〜
『ここはすべての夜明け前』のSF観について
*記事本文とは直接関係ないため、
興味のある方だけお読みください
●融合手術を受けた主人公とは
融合手術というのは、人間をサイボーグ、つまり人体の一部を義手や義足の機械部品に替え、電子機器を組み込んで機能や能力を拡張すること。
[わたし]の場合は「融合手術」で内臓を含む全身すべてが人間そっくりに機械化された。
「脳の一部が人間のまま」であることが、[わたし]が[わたし]でいられる唯一の砦だ。
ただし多くの記憶は外部メモリを脳と直接接続しているふうに読み取れる。
本文記述から、人工部品は脳の情報処理能力を高める能力まではなさそうである。
融合手術でサイボーグ化した人間は永遠の命を得るわけではない。[わたし]が融合手術後の最後の生き残りと記されていることから、エラーが多かったことや「自殺措置」による希望死が続出したことも考えられる(あくまで想像)。
サイボーグ化で思い出すのは士郎正宗原作『攻殻機動隊』の草薙素子だ。全身を義体(サイボーグ)化し、脳殻だけが人間の証しである草薙は、「自分とは何か、自分が人間だという証しはどこにあるのか」を永遠に問い続ける。こちらは本書と違ってゴリゴリのアクション・ハードSFである。
機械と人間の境界線を問うのは、SFの永遠のテーマだ。
近年のSFでは、サイボーグよりもアンドロイドを扱った作品が多い。
アンドロイドはサイボーグと違い、人間の生体機能がいっさいない人工物。完全にAIによってコントロールされている。
昨今のSF映画や海外ドラマには、AIに人格が宿るというテーマでアンドロイドと人間の共存や対峙、恋愛を描いた作品が数多くある。
行き過ぎたテクノロジーへの警鐘、ディストピアものがほとんどだ。
●SF設定は少々、曖昧
この物語で描かれている具体的なSF設定は明らかではない。
[わたし]のひとり語りであるため、[わたし]の興味外・知識外のことは何も語られないからだ。
物語後半は、気候変動等による地球の滅亡や他の惑星への移動なども語られている。
また今から100年後の近未来では、感情や思考コントロールされた多くの体外受精児たちが人類の中心層となっている。
これら後半の設定は面白いのだが、突拍子もなく提示されて戸惑った。
ファンタジー的に「そんなこともある世界線」だと認識すればいいのかも。
ツッコまなければ無理なく読めるのだが、むしろこの世界観をきちんと設計して長篇を書いて欲しいくらい魅力設定でもある。